渡哲也死因?-吉永小百合と結婚断念した若い頃の【画像】

どこかでおれを 見てるやつ
遠くになるほど 近くなる
あいつ あいつ 忘れられないあいつ

名優、渡哲也さんが2020年8月10日、亡くなられました。

あいつ ☆ 渡哲也

あいつ あいつ 忘れられない渡哲也、78歳の生涯。

病魔とのつきあいが絶えなかった。葉間肋膜炎(1972年)2カ月入院、胸膜炎(1974年)、肺感染症(1975年)、腓膜筋断裂(1989年)全治1カ月半、腸がん手術(1991年)人工肛門、心筋梗塞手術(2015年)、呼吸器疾患・・・

最期の病名は、嚥下肺炎(死因)です。

写真:1979年10月にテレビ朝日系でスタートした「西部警察」、大門団長(渡哲也)の狙撃シーン。迫力です。若いです。今はもう昔、戻らない。

2019年には酸素ボンベと経鼻酸素カニューレが必携になっていました。カニューレとは体の中に挿入できるチューブです。この状態で亡くなる一ヶ月強前(2020年6月)に最後の仕事、CMのナレーションどりをしています。仕事が好きでした。

1941年生まれですから、29歳、石原プロ入社当時から、病をかかえながら名優として歌手としてフットライト(注目の的)を浴びつづけてきました。

訃報ニュースをサンケイスポーツから引用します。

「大都会」「西部警察」など数々のドラマや映画で存在感を示した俳優、渡哲也さんが10日に肺炎で死去していたことが14日、分かった。78歳だった。この日、近親者のみで密葬が営まれた。

複数の関係者によると、入院先の東京都内の病院で親族に看取られ、静かに息を引き取ったという。2015年6月に心筋梗塞の手術を受けて以降、入退院を繰り返し、ここ数年は呼吸器疾患などで自宅療養を続けていた。

今年6月、石原プロモーション創業者でもある俳優、石原裕次郎さんの生前の映像と共演した宝酒造CM「よろこびをお伝えして50年~幻の共演~」のナレーション録りを自宅で行ったのが最後の仕事だった。

7月27日に完成作を見た際には何度もうなずき、書面で「最後のコマーシャルを裕次郎さんとの共演で終わらせていただきますのは感慨深いものがあります」とコメントを寄せた。

その10日前には、渡さんが2代目社長を務め、現在相談役を務める石原プロが来年1月に解散することを発表。渡さんは周囲に「時代の流れで新しい人たちが出てくる。我々は一歩下がって生きていかないと」と話していた。裕次郎さんが亡くなる直前、渡さんに託した「石原プロを畳んでくれ」という遺言を果たして天国へ旅立った。

渡さんは1941年に島根・安来市に生まれ、兵庫・淡路島で育った。青学大在学中の64年、浅丘ルリ子(80)が主演した映画「執炎」の相手役に実弟、渡瀬恒彦さん(のちに俳優、2017年死去、享年72)がこっそり応募。それがきっかけで日活にスタウトされ、65年に映画「あばれ騎士道」の主演で俳優としての一歩を踏み出した。また、同年に「純愛のブルース」で歌手デビューも飾った。

裕次郎さんとはデビュー前、日活の食堂で初対面した際に励ましの言葉をもらい感激。給料の交渉までしてくれたことを知って、さらに心酔し、背中を追い続けた。

日活がロマンポルノ路線へ転換した71年には、裕次郎さんが設立した石原プロへ迷うことなく入社。同プロ制作の日本テレビ系「大都会」シリーズ、テレビ朝日系「西部警察」では角刈りサングラスの大門圭介部長刑事を演じ、巨悪との銃撃戦やカーチェイス、爆破シーンの数々は国民をくぎ付けにした。

歌手としても、73年に「くちなしの花」が150万枚の大ヒットを記録し、74年と93年のNHK紅白歌合戦に出場して同曲を歌った。

一方で病に悩まされ続けた。74年に胸膜炎を患い、主演を射止めたNHK大河ドラマ「勝海舟」を途中降板。91年には直腸がん手術でオストメイト(人工肛門使用者)になったことを告白した。

天国では、石原軍団の看板を下ろして安堵した渡さんと裕次郎さんが酒を酌み交わして思い出話に花を咲かせているに違いない。

引用:サンケイスポーツ2020.8.14

あああ、、、いまは昔、渡哲也という翁(おきな)ありけり、、、。最期はほんとうに静かに息をひきとられた、そうです。

くちなしの花 ☆ 渡哲也 (松原智恵子)

壮絶、華麗、人生! 渡哲也のヒット出演作品の数々

渡哲也さんの主な作品
<映画>

・1965年「青春の裁き」

写真:24歳。

・1966年「東京流れ者」

「愛と死の記録」

・1968年「無頼より・大幹部」

・1975年「仁義の墓場」

・1976年「やくざの墓場・くちなしの花」

・1997年「誘拐」

・1998年「時雨の記」

・2000年「長崎ぶらぶら節」

・2004年「レディ・ジョーカー」

・2005年「男たちの大和/YAMATO」

<ドラマ>

・1979年テレビ朝日系「西部警察」

・1986年日本テレビ系「太陽にほえろ!」

・1996年NHK大河ドラマ「秀吉」(織田信長)

写真:55歳

・2005年NHK大河ドラマ「義経」

テレビ朝日系「熟年離婚」

・2009年NHK「坂の上の雲」

<レコード>

・1973年「くちなしの花」

あああ

泳いで、泳いで・・・と追悼の吉永小百合との過去

写真は、さようなら、渡さん・・・吉永小百合さん。

渡さんは、泳いで 泳いで 恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか。

この吉永小百合さんの追悼文を読んでおもわず ドキッ とした人がいると思います。

泳いで 泳いで 渡さんのところに 行かないで 小百合さん、と。

渡哲也さんと吉永小百合さんにはそれほどに強い絆(きずな)がありました。結婚、間近という話もありました。小百合さんは哲也さんの実家も訪れています。

吉永小百合、両親の猛反対で渡哲也との結婚あきらめ…

zakuzaku (2018.4.19)の中野信行氏(フリーライター)記述を、どうぞ。

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・・・決定的な恋は渡哲也との出会い。それは偶然の出会いであり、身を切るような悲恋に終わっている。小百合と浜田光夫のコンビでヒットした映画「愛と死をみつめて」の第2弾として、1966年に「愛と死の記録」が用意されたが、浜田が目を負傷したため急遽、渡哲也がピンチヒッターに選ばれたのだ。

青山学院大出身の渡は空手は黒帯有段者、映画では芯の強いタフガイのイメージで人気があった。そして二枚目、今でいうイケメンである。

出会いから意気投合した2人は「青春の海」(67年)で恋におち、「嵐の勇者たち」(69年)で共演したころは結婚を真剣に考えている。

渡は吉永家に出入りするようになり、実家に彼女を招いて両親を紹介している。渡瀬家(本名)では「結婚後は小百合の引退を望んだようだ」と伝えられている。

しかし、一家の大黒柱である小百合のマネジャーの父親は「交際はいいが結婚はダメ」、そして母親は「結婚したら相手を絶対に許さない」と猛反対。

69年の暮れ、小百合は結婚をあきらめるため、パリへと傷心旅行に出発したのであった。

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まとめ

名優二人の結婚がかなっていたら・・・ああ、たら話はやめます。

先立った渡哲也さんは、49日喪明けのころには 泳いで 泳いで その先で石原裕次郎さんと一杯酌み交わしていると思います。

石原裕次郎さん&渡哲也、時を超え幻の共演 松竹梅新テレビCM「よろこびをお伝えして50年~幻の共演~」篇・石原裕次郎さん1作目1970年「さぁ、飲ってみよう」篇・渡哲也1作目1988年「唄」篇

いいですね。

しあわせそうですね。

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