歌は記憶の底に眠ります。めざめると今その瞬間によみがえります。古くなりません。新鮮な息吹が脳内から身内から聴こえて出てきます。作詞家喜多條忠(きたじょうまこと)さん・・小さな石鹸カタカタ鳴った♪~神田川は私小説だったそうですね。
詞を書いた喜多條忠さん、74歳、死因は肺がんです。
南こうせつさん(72)が、喜多條忠さんに、こう話しかけています。
神田川の次は三途の川じゃないからね、と冗談を言ったり・・
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喜多條さんの体調不良は知っていましたが、こんなに早く亡くなるとは思っていませんでした。奥様からの留守電で訃報を知って驚いています。
最後に喜多條さんにお会いしたのは、今年の11月5日。御自宅に伺って、ベッドの上に仰向けのままの喜多條さんと、時に手を握りながら1時間くらい話をしました。「二人でもう一度いい歌を作ろうよ、神田川の次は三途の川じゃないからね」と冗談を言ったり昔話をしながら、喜多條さんは涙を浮かべて微笑んでいました。
お互いまだ学生だった頃、喜多條さんは文化放送の新人の放送作家、僕はペーペーのミュージシャンでした。文化放送の近くの喫茶店で二人が意気投合して、いつかきっと青山にでっかいビルを建ててみんなで夢を語れる自由なお城を作ろうよ!と語り合ったのがつい昨日のことのようです。
また一人大事な戦友を失い、寂しい気持ちでいっぱいです。僕はこれからもギターを抱えて歌っていくからずっと空から見守っていてください。
さようなら喜多條忠!
◇◇◇ (読売新聞 2021/12/01)
名曲「神田川」の作詞家・喜多條忠さん死去、74歳…南こうせつさん「大事な戦友失った」2021/12/01 00:00 読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211130-OYT1T50248/
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歌手石川さゆりさん(63)の追悼は、、、こうです。
先月24日、喜多條さんのお誕日に『必ず元気になるからね』と
先月24日、喜多條さんのお誕日に『必ず元気になるからね』とおっしゃって、またこれからも一緒に歌を作りましょう、年内に会いましょうと、そんな約束をしていたのに、今は、ただただ驚いて、寂しいです。一緒に作った『獨(ひと)り酒』が最後の作品になってしまうなんて、本当に悲しすぎます。今はまだ気持ちの中に受け入れることができません。心からご冥福をお祈り申し上げます
(2021年12月1日 日刊スポーツ)
泣きたいやつは泣けばいい
さびしいね さびしいよ
ためいきまじりの夜泣き鳥
愚痴と涙が 酒になる
泣きたいやつは泣けばいい ♪
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「神田川」は学生時代の喜多條忠を詞にした私小説
神田川(かんだがわ・作曲は南こうせつ)は73年9月20日発売で120万枚超のミリオンセラーとなった。舞台は東京・高田馬場2丁目付近で、歌詞に登場する「横丁の風呂屋」は西早稲田の安兵衛湯(廃業)。同年「第24回NHK紅白歌合戦」に出場依頼が来たが、歌詞の「クレパス」が商品名と問題となり、出場しなかった。
↑ 引用・日刊スポーツ2021年12月1日。
「神田川」作詞家・喜多條忠さん死去、74歳 吉田拓郎と数々のヒット曲
[2021年12月1日 日刊スポーツ https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202111300000658.html
かぐや姫のシングル「神田川」などで知られる作詞家・喜多條忠(きたじょう・まこと)さん(本名同じ)が22日午前6時、肺がんのため横浜市内の自宅で死去した。74歳。
↑喜多條忠さんの生涯がまとめられているこの記事を引用します。↓
昨年、頭部に腫瘍が見つかり、治療の過程で肺にも小さな腫瘍が見つかった。手術と放射線治療を続けて、今年3月にはゴルフをするまでに回復。作詞活動も続けた。10月中旬に入院先から自宅に戻ったが、11月半ばに意識が混濁。眠るように亡くなった。
早大在学中に、浅川マキさんの「カモメ」を聴き、歌詞に興味を持った。大学を中退し、文化放送で放送作家をしている時に、かぐや姫の南こうせつ(72)と意気投合。アルバム用の作詞を依頼された。「『締め切りは今日なんですけど』と平気な顔をして言った」と当時を懐かしんだ。
急な依頼だったが、帰宅途中に神田川を見た。同川沿いの3畳一間のアパートで彼女と同棲していた学生時代を思い出した。一気に書き上げた。73年発売の名曲「神田川」である。学生運動の熱が冷めていく中、彼女との平凡な日々の空虚感を「ただ 貴方のやさしさが 恐かった」に込めた。
親交深い吉田拓郎の依頼で梓みちよの「メランコリー」(76年)を作詞した。この時、拓郎に「歌謡曲のセンスないから書けないだろうけど」と言われ発奮。後に拓郎から「いくつか曲つけたけど詞に勝てなかった」と称賛された。この作品でフォークソング作家のイメージを払拭(ふっしょく)。拓郎と手掛けたキャンディーズの「やさしい悪魔」「アン・ドゥ・トロワ」など歌謡曲でも頭角を現した。
35歳のころに「乾いたタオルを絞って水を出そうとする」ような作詞家生活に疲れ、好きだったボートレースの予想やコラムニストに転身。歌仲間に促され、25年後の60歳で演歌で作詞活動を再開した。日本作詩家協会の会長だった17年に、伍代夏子の「肱川あらし」で悲願の日本作詩大賞(第50回)を獲得。「フォークやニューミュージックで育った団塊の世代の私が、演歌もいいよなと言ってくれる作品をつくりたい」と話した。その情熱が成就した。
まとめ
写真:右、喜多條忠。左、南こうせつ。
半世紀、50年も昔、20代だった二人が”妙に気が合う”な~と出会い、南こうせつさんが、締切は明日だけど、と作詞依頼し、喜多條忠さん初作詞にいどみ「神田川」が生まれた。
若かった二人♪
歌っていいですね。