写真:石原裕次郎さん二十八回忌法要。(前列左から)神田正輝、石原まき子会長、渡哲也さん、舘ひろし。後列右端は徳重聡。渡さんが法要に参加したのはこの年が最期になった=2014年(中日スポーツ)
破壊した車4600台 、石原軍団解散とスポーツ紙
裕次郎さん設立から58年、2021年1月16日、「石原プロモーション」(石原まき子会長)は俳優のマネジメント業務を終了しました。1963年1月16日に設立された石原軍団が解散したのです。設立も解散も1月16日です。日本映画の歴史の鼎(かなえ)の一つがしづかに幕を引き虹の橋をわたり天に登りました。
石原プロは、桁違いのスケールでたびたび世間の度肝を抜いた。「西部警察」ではカーチェイスや車、建物などの爆破シーンが人気に。壊した車は4600台以上ともいわれた。2000年に行った新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」には約5万2000人の応募があり、賞金総額は1億円だった。09年7月に行われた裕次郎さん二十三回忌イベントでは東京・国立競技場に“寺”を建てファンを呼び込んだ。また、阪神大震災(95年)や東日本大震災(11年)では、メンバーが被災地に駆けつけ渡さんや舘らが炊き出しを行い、被災者らにふるまった。
(中日スポーツ・2021年1月17日)
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↑「おもちゃ箱のようだった」舘ひろしが語る石原プロ58年の歴史 解散後も名を残す石原軍団・・・(東京新聞1月10日掲載)
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1963年・・・石原プロモーション設立。
石原裕次郎・・・1934年(昭和9年)12月28日生まれ。身長178センチ。兄、石原慎太郎の芥川賞受賞作【太陽の季節】映画化でちょい役でデビュー。いきなり 脚光 をあびる。脚の光・・脚の長さ、強烈な印象ですね。第二作【狂った果実】で主役。慶応大学生でした。22歳。
23歳、歌手デビュー【俺は待ってるぜ】が160万枚の大ヒット。【嵐を呼ぶ男】が3億5600万円の配収を上げる空前の大ヒットとなる。
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1963年、29歳、個人事務所(プライベートオフィス)として「石原プロモーション」(石原軍団)設立。資本金3000万円、社員9名。代表取締役社長に就任。所属俳優は浅丘ルリ子など。
平成三年には下記の会社概要になっていた。
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商号株式会社石原プロモーション本店東京都調布市国領町7丁目3番3号(平成3年12月1日東京都調布市布田4丁目20番地2調布NKビル3階へ移転)設立年月日昭和38年1月16日資本金3,000万円役員代表取締役会長石原まき子相談取締役渡哲也 専務取締役浅野謙治郎 映像版権取締役佐藤泰博 芸能部取締役小嶋克巳 制作事業部取締役古賀正行 映像制作部取締役椎野茂 経理部取締役小林聖 制作部長プロデューサー兼 広報担当山崎智広 所属俳優渡哲 舘ひろし 神田正輝 徳重聡 池田努 増本尚
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1968年、黒部の太陽、大ヒット!
1968年2月に石原プロ・三船プロ制作『黒部の太陽』が公開された。観客動員数733万7000人、この年の日本映画最高を記録。三船敏郎、石原裕次郎の共演という五社協定を打ち破る記念碑的大作ともなった。撮影中の1967年に現場で流水事故が発生、22名が流され、石原裕次郎は意識不明の重症。
石原裕次郎、三船敏郎の映画「黒部の太陽」は何がすごいのか!?
世界のミフネこと三船敏郎と日活アクションのトップスター石原裕次郎が初共演した「黒部の太陽」((c)石原プロモーション、(c)三船プロダクション)。当時斜陽の映画界で「本物のスペクタクルを作ろう!」と2人が製作に乗り出した世紀の超大作にはさまざまな苦難が立ちはだかった。・・・AERAdot.引用・・・。
↓ 文字ばかりの異色の予告編です。まるでエンディング。
1970年、映画【ある兵士の賭け】で興行的に失敗、石原プロ倒産危機。
1970年、主人公にハリウッドの俳優を起用するなど、主演の石原裕次郎が代表を務める石原プロモーションが巨費を投じて製作したが、興行的には失敗した。
裕次郎の妻・石原まき子によると、
失敗したんです。外国の俳優さんたちを使うと日本の映画の何十倍もの製作費がかかる。裕次郎が主役ではなく、アメリカのなじみのない方だから、興行的に失敗するわけです。それで大借金。当時で言うと6億の借金。
大失敗に終わり、「石原プロモーション」は資金もほとんど底をつき、莫大な借金を背負う。倒産の噂もでました。
しかし、そこへ持ち金をすべて、自身の全財産180万円(当時のサラリーマンの年収4年分に相当)を出して役立ててくださいと渡哲也が現れます。
1972年、【太陽にほえろ】
耳(メロディ)からよみがえる記憶 ↓
1976年、【大都会】
1976年1月から1979年9月にかけて日本テレビ系列で毎週火曜日21:00 – 21:54(JST)に全3シリーズが放送された。石原プロモーション制作。
1979年、【西部警察】
1979年10月から1984年10月にかけてテレビ朝日系列で全3シリーズが放送された。
耳(メロディ)で想い出す記憶 ↓
1981年、石原裕次郎、 解離性大動脈瘤手術
1987年、石原裕次郎、死去、死因は 肝細胞癌
2009年、国立競技場に原寸大の総持寺を再現、石原裕次郎23回忌
2021年1月6日 石原プロ(石原軍団)解散
しずかな幕引きでした。
事務所を閉じる一月十六日は裕次郎が起業した日。「静かに仏前に商号をお返しして、セレモニーはない」。版権、遺品の管理などは石原音楽出版社、一般社団法人ISHIHARAが行うとしている。