刑務所前には報道陣がドドドっと集まり、NHKもTVニュースで流していました。お祝いの花束かかえ、満面の笑顔。ムショ前で記者会見です。まるでお努め帰りの親分さんです。なんか、奇妙です。「誠に卑劣で身勝手かつ自己中心的な犯行」・・東京地裁(2006年2月)判決文です。銃乱射事件犯人だった新左翼赤軍派の重信房子氏(76)が刑期満了で2022年5月28日に出所した”晴れ姿”・・・。
刑期終えれば過去はクリアされる?小説やドラマならいいでしょう。しかし現実のこの世、社会では、いいはずがない。個人と社会では違います。個人は相手に被害を与えないなら何をしようと自由気ままにやればいいのです、が、社会(集団)との接点があれば、そうはいかないのです。
銃で撃ちまくるテロリスト魔女・重信房子
──これはイメージです。本人ではありません。
↑ 毎日グラフ 1972/6/25 重信房子 。本人です。
このタバコの吸い方、持ち方がのちのちの逮捕のきっかけになります。
人心掌握術が魔法のように上手かったことから、『魔女』と呼ばれるようになりました」こう語るのは、歴史学者の濱田浩一郎さんだ。
「過激さを増した『共産主義者同盟赤軍派』の一部メンバーは、1970年、日本で初めてハイジャックを起こします。いわゆるよど号ハイジャック事件で、北朝鮮への亡命を図るのです。これは共産主義思想を持った学生たちが、発展途上国などに拠点を築き、革命を起こすべきだとする『国際根拠地論』を掲げたことの一環です。重信も、1971年に中東のパレスチナに赤軍派の基地を作ろうとし、現地で『日本赤軍』を結成するのです」
1973年7月23日、ドバイ空港の滑走路を、日航404便が飛び立った。この飛行機こそ、日本赤軍が初めておこなったハイジャック機で、リビア空港に着陸後、すぐに爆破されている。実は、よど号ハイジャック事件によって、日本には「ハイジャック防止法」ができていた。しかし、日本政府はハイジャックへの関心が低く、404便でも荷物検査はなかったという。
日本赤軍は、ドバイ日航機ハイジャック事件やハーグ事件以外にも、イスラエル・テルアビブ空港乱射事件(1972年5月)、在クウェート日本大使館占拠事件(1974年2月)、ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年9月)など数多くのテロを起こしている。
「1972年の乱射事件が起きた当時、パレスチナでは、占領するイスラエルとそれに抵抗するパレスチナ解放機構との対立が激化していました。重信たちはパレスチナ解放闘争を始めますが、その過程で数多くの民間人を巻き込み、無差別テロ実行犯として、国際社会から激しく非難されました。同時に、中東の石油に依存しながら現地の政情に無関心だった日本政府が、中東問題に真剣に向き合うきっかけにもなるのです」
ハーグ事件で懲役20年となった重信は、2022年に刑期満了で出所予定だ。2001年4月、重信は獄中から日本赤軍の解散を表明しているが、現在も乱射事件の実行犯7人が国際手配中である。
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重信房子氏は資金集めが得手でした。
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公安調査庁データでみる日本赤軍最高幹部・重信房子の犯行、経歴
以下は公安調査庁の資料です。
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日本赤軍
(1) 結成時期
1972年(昭和47年)5月30日
(2) 組織・機構
ア 最高幹部
重信房子
イ 組織形態,意思決定機構
日本赤軍は,70年安保闘争を主導した過激派集団の一分派である「共産主義者同盟赤軍派」の流れをくみ,日本革命を世界革命の一環と位置付けて,その時々に応じた狡猾な革命論を展開しつつ,武装闘争をじゃっ起する国際テロ組織。また,多様な思想を背景としたメンバーが,思想学習,総括等を繰り返すことにより,価値観の共有及び組織の結束を保持。
(3) 勢力
20~30人
(4) 活動地域
中東,欧州,東南アジア,中南米,日本
(5) 活動目的・攻撃対象
天皇・皇族,,自衛隊・警察・裁判所・米国と欧州諸国の在外公館・施設などが攻撃対象と公安調査庁
• 世界革命の一環としての日本革命を目指し,情勢の変化に応じた戦略論を展開
攻撃対象は、天皇・皇族,政府要人・高級官僚,自衛隊・警察・裁判所等の我が国の国家機構並びに米国,欧州諸国の在外公館・施設等
イ 攻撃対象
天皇・皇族,政府要人・高級官僚,独占資本家及び自衛隊・警察・裁判所等の我が国の国家機構並びに米国,欧州諸国の在外公館・施設等
(6) 沿革
1969年(昭和44年)の4・28沖縄デー闘争を敗北と総括した「共産主義者同盟(第二次ブント)」は,暴力闘争方針をめぐって内部対立が深刻化し,同年9月4日,同盟内最左派が離脱して「共産主義者同盟赤軍派」(以下,共産同赤軍派)を結成した。共産同赤軍派は,70年安保闘争の事実上の決戦と位置付けた同年11月の佐藤首相訪米阻止闘争を前に武装蜂起するとの闘争方針(「前段階武装蜂起」)を提起し,その準備に着手したが,大菩薩峠事件(同年11月5日)での活動家の大量検挙等により蜂起に失敗した。これを受け,同派議長・塩見孝也は,「社会主義国家等に根拠地を建設し,国際的支援を受けて,日本革命を達成する」との「国際根拠地論」を提唱し,1970年(昭和45年)3月31日には,同派軍事委員長・田宮髙麿ら9人が,日航機「よど号」を乗っ取り,北朝鮮に渡った(注)。田宮らは,同年秋,日本に帰国する計画であったが,当初の計画通りには運ばず,また,「よど号」ハイジャック事件前後に塩見を始めとした幹部が相次いで検挙されたこと等により,同派の組織体系は混乱していった。
こうした状況の中,共産同赤軍派の幹部であった重信房子は,「闘いの過渡にある解放と革命の戦場をこそ根拠地とすべきである」としてパレスチナ問題への傾斜を強め,1971年(昭和46年)2月28日,京都大学パルチザン活動家・奥平剛士と偽装結婚の上,レバノンに向け出国した。
現地入りした重信房子は,「パレスチナ解放人民戦線」(PFLP)と接触し,その支援の下,共産同赤軍派アラブ支部の建設に取り組む傍ら,同年5月には,日本からの新左翼系映画関係者数人の現地案内役を務め,パレスチナ・ゲリラの活動を主題とする映画「赤軍-PFLP世界戦争宣言」の製作を手助けするなどした。
一方,「よど号」ハイジャック事件による検挙者の続出によって組織が弱体化した共産同赤軍派は,同年7月,日本共産党革命左派神奈川県委員会(京浜安保共闘)と組織統合し連合赤軍を発足させたものの,1972年(昭和47年)2月のあさま山荘事件等一連のいわゆる連合赤軍事件によって自滅した。
このため,重信房子らは同年3月,「赤軍派の同志諸君ならびに連合赤軍の同志諸君そして友人たちへ」と題するメッセージを発表し,共産同赤軍派からの訣別(けつべつ)を宣言して,独自の立場で革命運動を展開していく姿勢を明らかにした。そして,同年5月30日(日本時間同31日),岡本公三,奥平剛士,安田安之の3人が,イスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港で無差別乱射事件(日本赤軍は同事件を「リッダ闘争」と呼称。リッダとは「ロッド」の現地読み〈発音〉)を引き起こし,同事件直後に発表した犯行声明によって,日本赤軍の存在が初めて明らかになった。
日本赤軍は,テルアビブ空港乱射事件以後,レバノン国内に活動の拠点を置き,中東,欧州,東南アジアを舞台に相次いで国際テロ事件を引き起こす一方,1980年代に入り,1981年(昭和56年)3月,英字誌「SOLIDARITY」(不定期刊),1984年(昭和59年)3月,英字誌「POLITICAL REVIEW」(季刊),1985年(昭和60年)9月,邦字誌「中東レポート」(月刊)を創刊し,それらを通じて,シンパ獲得に向けた政治宣伝活動を活発化させた。
こうした中,日本赤軍は,1984年(昭和59年)7月,「大地に耳をつければ日本の音がする-日本共産主義運動の教訓」を刊行し,「世界プロレタリア独裁樹立に向けて,世界革命の有機的な構成要素としての日本革命」を志向していることを明らかにするとともに,日本共産党等の批判を展開した上で,目指す革命党組織像について,「現象的に大衆的支持の面で弱点をもっていても,戦略からみて必要な武装闘争や戦術的突出はひきうけなければならない」,「党は非合法から出発し,それを基盤に合法活動を組織することによってより広範に人民の闘いを組織していくことができます」などと主張した。次いで,冷戦構造崩壊後の1993年(平成5年)5月に出版した「日本赤軍-20年の軌跡」では,革命の主体について,「労働者階級ということを革命主体として限定的に考えるよりも,人民という総体を主体としてとらえていこうということです。私たちの立場で言えば,アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する全ての人々を指しています」と規定した「人民革命」を主張するとともに,「国際階級攻防」としての,「自衛隊海外派兵に反対するたたかい」,「日米安保に反対するたたかい」,「天皇制を廃止する闘争」の重要性を訴えた。
その後,1990年代中頃に入り,東欧,南米でメンバーの逮捕が相次ぎ,徐々に活動の範囲を狭められたところ,1997年(平成9年)2月,長年にわたり「解放区」として拠点に利用してきたレバノンにおいて,岡本公三らメンバー5人が逮捕されるに至った。5人は,不法入国の罪等で同国で収監後,レバノンへの政治亡命を認められた岡本を除き,ヨルダンへの強制退去を経て,2000年(平成12年)3月,日本へと送還された。
テルアビブ空港乱射事件を変わらず肯定・評価・重信房子
同年11月に日本国内で潜伏中のところを逮捕された重信房子(2010年〈平成22年〉8月,懲役20年の判決確定)は,2001年〈平成13年〉4月,「公正と正義を求めて,ともに進みます」と題するメッセージを発出し,同メッセージの中で日本赤軍の「解散」を宣言した。しかし,重信は,同メッセージにおいて,「日本において,日本人民は,武装闘争を望んでいませんし,そういう条件も,状況もないことを知っています」と述べる一方で,「ある時代,ある状況の中で,武装闘争が,人民の要求としてあり,それによって状況を切り拓(ひら)く役割もありました」として,テルアビブ空港乱射事件を始めとする日本赤軍によるテロ事件を肯定・正当化するとともに,「人民の要求」等の条件が整えば武装闘争も選択肢となり得ることを示した。また,日本赤軍は,重信の「解散」宣言を追認した同年5月の声明において,「リッダ闘争はそれを担った主体の不充分さはありながらも,闘った3同志の命を賭した自己犠牲精神によってパレスチナ解放闘争の新しい段階を切り開くことに共同し,同時に,言葉に尽くせない連帯を築きました」と述べ,テルアビブ空港乱射事件を変わらず肯定・評価するとともに,「かつて様々な場で戦列を共にした友人たち,まだ出会っていないが志をひとつにする人々へ,ともに,幾度でも自らのあり方を正しながら,このグローバルな資本主義に挑戦し,21世紀に誰もが人間らしく生きることのできる世界,公正と正義にみちた世界の実現を求めていこうではありませんか」,「勝利するまでは何度敗北しても,その敗北を礎にして世直しに挑戦し続けます」と述べ,活動継続への決意を表明した。
2001年(平成13年)12月には,日本赤軍の公然面での後継組織「連帯」(同名の団体が既に存在していたことから,2003年〈平成15年〉1月以降「ムーブメント連帯」と呼称)が結成された。「連帯」も結成宣言において,「私たちは闘いの歴史を継承する」とした上で,「日本人の3戦士が命をかけた連帯の証として,決死作戦のリッダ闘争が戦い抜かれました。その闘いは,日本では単なる『テロ行為』としてしか伝えられませんでした。しかし,抑圧と虐殺の最中にあった,パレスチナ解放闘争の正義と祖国を希求するアラブ・パレスチナの人々には新たな息吹を与えました」と述べ,テルアビブ空港乱射事件を評価した。
なお,日本赤軍は,1999年(平成11年)10月,米国において,「1996年反テロリズム及び効果的死刑法」に基づき,外国テロ組織(FTO)に指定された。その後,2001年(平成13年)10月,「注視を続け,他の関係各国と情報を交換してきたが,過去2年間,指定を正当化するに足る情報がなかった」として,指定解除となったものの,米国同時多発テロ事件を受けて成立した「2001年パトリオット法」により改正された「移民国籍法」に基づき,同年12月,米国の「テロリスト入国拒否リスト」に掲載された。
(7) 最近の主な活動状況
2014年(平成26年)5月に,国内の日本赤軍メンバーや支援者らによる「リッダ闘争」記念集会において「ムーブメント連帯」の解散表明が行われたものの,翌2015年(平成27年)以降も,「リッダ闘争」を記念する集会が都内で開催されており,同集会では,重信房子が,テルアビブ空港乱射事件の実行犯である日本赤軍メンバーをたたえる声明を寄せているほか,岡本公三が連帯メッセージを寄せるなど,引き続き,同事件を正当化する姿勢を示している。2020年(令和2年)は,新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で同集会は開催されなかったが,重信及び岡本が,「リッダ闘争」を肯定するメッセージを支援団体の機関紙等にそれぞれ寄稿した。また,2016年(平成28年)6月にベイルートでPFLPが主催した「5.30リッダ闘争44周年記念集会」に岡本公三が出席し,PFLPから表敬の楯を受け取った。このほか,2016年(平成28年)10月,「ジャカルタ・日本大使館等手製弾発射事件」(ジャカルタ事件,1986年〈昭和61年〉)への関与をめぐる日本赤軍メンバー・城﨑勉の裁判員裁判(第一審・東京地裁)の公判に際し,被告人側証人として国内の日本赤軍メンバーが出廷した(第一審判決(2016年〈平成28年〉11月):懲役12年,城﨑側が即日控訴。第二審判決・東京高裁(2018年〈平成30年〉9月):懲役12年(第一審判決支持)確定)。さらに,2019年(令和元年)10月及び11月,国内の日本赤軍メンバーや支援者らは,東京等全国5か所において,共産同赤軍派結成50周年を踏まえた集会を開催した。なお,重信は,2020年(令和2年)3月,国内で服役中の日本赤軍メンバー・泉水博が刑務所で死去したことを受け,支援団体の機関紙に追悼メッセージを寄稿した。
日本赤軍は最高幹部重信を含め危険な体質に変化はないと公安調査庁
このように,日本赤軍は,最高幹部・重信らがテルアビブ空港乱射事件を正当化し続けていること,組織として武装闘争を放棄したことを示す事実もみられないこと,岡本公三を始め,1972年(昭和47年)2月のあさま山荘事件で警察部隊と銃撃戦を展開した坂東國男や,連続企業爆破事件(1974~1975年)に関与した佐々木規夫,大道寺あや子等7人のメンバーが国際手配中であることから,その危険な体質に変化はみられない。
年月日 主要テロ事件,主要動向等
72.5.30 テルアビブ空港乱射事件
イスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港(現ベン・グリオン国際空港)において,岡本公三,奥平剛士,安田安之の3人が,自動小銃を乱射するなどして,居合わせた一般旅行者ら100人を殺傷(うち死者24人)。奥平と安田は,事件現場で死亡。岡本は,イスラエル当局に逮捕され,終身刑とされたところ,1985年(昭和60年),捕虜交換によって解放。岡本は,レバノンに亡命中
73.7.20 日航ジャンボ機乗っ取り事件(ドバイ事件)
「被占領地の息子たち」を名のるパレスチナ・ゲリラと日本赤軍メンバー・丸岡修の混成部隊5人が,オランダ・アムステルダム発東京行きの日航機を乗っ取り,アラブ首長国連邦(UAE)・ドバイ空港に強制着陸。身代金と共産同赤軍派活動家2人の釈放を要求する旨の脅迫状を日本航空が受け取ったが,犯人グループと日本政府との交渉は成立せず。犯人グループは,乗員・乗客と共に同空港から,シリア・ダマスカス空港を経由して,同月24日,リビア・ベニナ空港に到着。犯人グループは,乗員・乗客を解放した後,同機を爆破して,リビア当局に投降。犯行時,犯人グループが所持していた手りゅう弾の誤爆により,犯人が1人死亡
74.1.31 シンガポール製油所襲撃事件(シンガポール事件)
日本赤軍を名のる2人を含む4人のゲリラが,シンガポールの製油所を爆破した後,同製油所のフェリーボートを乗っ取り,乗員を人質として,シンガポール政府に対して,国外脱出用の飛行機の手配を要求。その後,こう着状態が続いていたところ,2月6日,パレスチナ・ゲリラ5人が,在クウェート日本大使館を占拠し,大使ら16人を人質に取り,日本政府に対して,シンガポールのゲリラ4人を飛行機でクウェートへ送るよう要求。日本政府は,要求を聞き入れ,特別機を派遣して,シンガポールのゲリラ4人をクウェートに輸送。クウェートで合流した犯人グループは,同機を南イエメン(イエメン人民民主共和国,当時)に向かわせ,到着後,南イエメン当局に投降
74.9.13 ハーグ・フランス大使館占拠事件(ハーグ事件)
日本赤軍メンバー・和光晴生ら3人が,オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して,人質のフランス大使らとフランスで逮捕されていた日本赤軍メンバーの交換等を実現。メンバーらは,人質全員解放後,フランス航空機でシリアに渡り,同国当局に投降
75.8.4 クアラルンプール米大使館領事部,スウェーデン大使館占拠事件(クアラルンプール事件)
日本赤軍メンバー・和光晴生ら5人が,マレーシア・クアラルンプールの米国大使館領事部及びスウェーデン大使館(ビルの同じ階に所在)を占拠し,米領事,スウェーデン代理大使らを人質として,日本で勾留又は服役中の日本赤軍メンバーら7人を釈放の上クアラルンプールに移送し,犯人らと共に脱出させるよう要求。日本政府は,出国を拒否した2人を除く5人を超法規的措置により釈放,クアラルンプールに移送し,人質と交換。その後,犯人らは,リビアに渡航し,同国当局に投降
77.9.28 ダッカ日航機乗っ取り事件(ダッカ事件)
日本赤軍メンバー・丸岡修ら5人が,パリ発東京行き日航機をインド上空で乗っ取り,バングラデシュ・ダッカ空港に強制着陸。犯人らは,乗員・乗客と交換に,日本で勾留又は服役中の日本赤軍メンバーら9人の釈放・引渡しと身代金を要求。日本政府は,出国を拒否した3人を除く6人を超法規的措置によって釈放し,身代金と共に犯人らに引き渡して,人質の一部と交換。犯人らは,残りの人質を連れてアルジェリアに向かい,経由地で人質を順次解放して,アルジェリアに到着後,同国当局に投降
86.5.14 ジャカルタ・日本大使館等手製弾発射事件(ジャカルタ事件)
インドネシア・ジャカルタにおいて,日本大使館及び米国大使館に向け爆発物が発射されたほか,カナダ大使館の入居するビルの駐車場で車両に仕掛けられた爆弾が爆発。「反帝国主義国際旅団」名での犯行声明が出されたところ,日米当局は,日本赤軍メンバー・城﨑勉を犯人として国際手配。同人は,その後,ネパールで拘束,米国に移送され,米国において収監
87.6.9 ローマ米・英大使館爆破事件(ローマ事件)
ベネチア・サミット開催中,在ローマ米・英両国大使館に向け爆発物が発射されたほか,米国大使館の近くに駐車していたレンタカーを爆破。「反帝国主義国際旅団」名での犯行声明が出されたところ,イタリア当局は,事件に関して日本赤軍メンバー・奥平純三,城﨑勉の2人を欠席裁判にかけ,1991年(平成3年),奥平に対し禁錮17年の判決(城﨑は無罪)
87.11.21 ドバイ事件及びダッカ事件で指名手配されていた日本赤軍メンバー・丸岡修が東京都内で逮捕される(2000年〈平成12年〉4月無期懲役確定,2011年〈平成13年〉5月八王子医療刑務所内で死亡)
88.4.14 ナポリ米軍施設前車両爆破事件(ナポリ事件)
イタリア・ナポリ市内の米軍人専用クラブ前に駐車中のレンタカーに仕掛けられた爆発物が爆発し,米軍人1人を含む5人が死亡,約20人が負傷。「聖戦旅団機構」名での犯行声明が出されたところ,イタリア当局は,事件に関して日本赤軍メンバー・奥平純三,重信房子の2人を欠席裁判にかけ,1992年(平成4年),奥平に終身刑判決(重信は無罪)。また,米国当局は,事件に関して,1993年(平成5年),イタリアで終身刑が下された奥平を殺人容疑等で所在不明のまま起訴
00.11.8 最高幹部・重信房子が潜伏していた大阪・高槻市内で逮捕される(2010年〈平成22年〉8月懲役20年確定)
15.2.20 日本赤軍メンバー・城﨑勉は,米国内の刑務所から出所し,日本に強制送還され,成田空港で逮捕される(2018年〈平成30年〉9月懲役12年確定)
・・・以上、公安調査庁資料です。
以下、このような指摘もあります。
日本赤軍。
国際テロ界では泡沫で、ワディ・ハダド派に転がり込んで面倒みてもらい、KGBが裏で糸を引くテロ犯罪ネットワークの鉄砲玉役に単に使われて人殺しをやり、それからアサド父の極悪秘密警察の手駒に成り下がったPFLP-GCに拾ってもらっただけの人たち— 黒井文太郎 (@BUNKUROI) May 28, 2022
KGB ソビエト連邦最高会議幹部会
が裏で糸を引くテロ犯罪ネットワークの鉄砲玉役で人殺しを
・・・
日本赤軍リーダーの重信房子がレバノンで訓練している場面として『少女コマンドーIZUMI』の写真がロシア語圏で出回ってるの、めちゃめちゃ面白いですね。 pic.twitter.com/M9AdarzVyv
— 須藤玲司 (@LazyWorkz) March 12, 2020
【「魔女」の実像㊤】革命目指したテロリストの女王 日本赤軍の重信房子元最高幹部 28日に出所 https://t.co/7mGSqAobdT
赤軍派の資金集めを担っていた重信は、酔客に組織の窮状を訴え、カンパを募っていた。気さくに相手の懐に飛び込み、カンパを集める彼女を、仲間たちは「魔女」と呼んだ。
— 産経ニュース (@Sankei_news) May 27, 2022
1974年のオランダ・ハーグの仏大使館占拠事件で有罪判決を受けた国際テロ組織「日本赤軍」の重信房子元最高幹部(76)が28日、懲役20年の刑期を満了し、収容されていた東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)から出所しました。https://t.co/laSG1XSyiz
— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) May 27, 2022
まとめ
刑務所で大腸がん4度手術、さらに抗がん剤治療を受けていた重信房子氏です。今は闘病の魔女、老女となりました。因果は巡るというのか、それでも無事出所できた気力には衰えがないというか・・。一人娘、重信メイさん(49)・・戸籍名は、奥平メイ・・の支えで余命を何に傾注するのか・・。メイさんにとっては、母はいつまでも偉大な存在であってほしいのです。
出所のさいにおしゃれな帽子をかぶせ、きれいな花束をもたせたのも娘・メイさんです。
それに応えて生きる?
あるいは? 日本赤軍の逃亡中犯人逮捕に協力する?
どう生きようと自由という身にはなりました。でも、公安調査庁の目はひかっています。
マガジン9 http://www.magazine9.jp/article/konohito/13565/でこの母と娘の感情に関する記事があります。
編集部
メイさんは、お母様からの愛情を感じながら育ったと感じておられるということですね。具体的にはどういうことですか?重信
2~3ヵ月に1回、半年に1回しか会えないようなときもあったけれど、一緒にいるときは革命家とか組織のリーダーとかいうよりも――もちろん、そういう部分もたしかにあるのですが――「母親」として接してくれました。例えば、忙しいのに私が好きな料理を徹夜で一生懸命作ってくれたり、材料が手に入らないと、何かで代用できないかと何度も工夫してくれたり。そういう姿を見ていると、やっぱり愛情は伝わってきますよね。
個人的には感情がウルッときます。重信房子氏も純たる個人として生きてください。すでに革命の時代は去りました。曲りなりに日本は保守安定しています。
写真:重信メイ(奥平メイ)49歳。
写真:重信房子。病魔の老女