皇室駆け落ち婚・久邇宮道子王女は勘当、離婚、再婚、現在88歳

眞子内親王の小室圭氏への”駆け落ち婚”は”飛び逃げ”日本脱出婚。 

秋篠宮眞子内親王がニューヨクの小室圭氏の元への”駆け落ち婚”年内説で皇室関連ニュースはもちきりです。皇室皇女駆け落ち婚の前例といわれている実例・久邇宮道子王女の場合は、いかがなものだったのか。62年前のことです。おそれながら、すこし探ってみました。

あ、ちょっと、駆け落ちというのは、相思相愛の二人がどこか他の地へ逃げる。

眞子内親王は一人でニューヨークの小室圭氏の元へ。それも公然と、夜汽車♪(注1)ではなく飛行機ですから、アメリカへ飛び逃げる、ですよね。物価の高いニューヨクで生活費は、、飛行機代は誰が出すのかナ。ん?大丈夫? 皇室離脱一時金1億ン千万円? もらい飛び逃げ? 日本を捨てる、まさか、ですよね。と、おもいたい、と、おもいます。

・・夜汽車♪(注1)・1971年1月10日発売、はしだのりひことクライマックスのファースト・シングル、「花嫁」(はなよめ)。「帰れない 何があっても」「何もかも捨てた」と誓い、花嫁衣装もなく、夫になる人の元へ夜汽車で1人で旅立つ・・

話、元へ。

62年前の皇室皇女駆け落ち実例・久邇宮道子(くにのみやみちこ)王女の場合は、一時金はなし、0 でしたよ。昭和22年10月14日(1947)、GHQ(アメリカ占領軍)の皇室財産が国庫に帰属するとの指令(命令)で久邇宮家そのものが皇籍剥奪となっていた、つまり平民あつかいに落とした。占領軍というのは、 滅茶苦茶(メチャクチャ)でござります ・・1960年代に漫才師、花菱アチャコがつぶやいて大流行したギャグ・・。

久邇宮家は都内一等地、渋谷に2万坪の敷地内に豪邸(現在・聖心女子大)を有していた皇族中の皇族というか天皇家に近い皇族です。

久邇宮道子王女の父親・久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年(明治34年)2月2日 – 1959年(昭和34年)12月7日)は、日本の元皇族、官位は海軍中将大勲位功三級。 昭和天皇の義兄。第125代今上天皇の伯父にあたります。

道子王女は1933年〈昭和8年〉9月4日 – )日本の元皇族。久邇宮朝融王第三王女。母は朝融王妃知子女王。1947年(昭和22年)10月14日の皇籍離脱までの名と身位は通子女王。

久邇宮通子王女は眞子内親王とはちがい完全勘当で一時金は0円

久邇宮 通子王女

写真:久邇宮通子王女

久邇宮通子王女は大学(学習院)1年生で一般人、平民、永岡義久氏という恋人と出会い、人生が一変します。通子王女の実質のあつかいは平民でも実態は皇族ですから、許されない恋です。父も母も、皇室の方々も大反対です。それでも一心をつらくのは眞子内親王とおなじ一途さをおもちです。しかしネット、SNSなどとは無縁の時代ですから、国民の総反発というプレッシャーはありませんが、逃れようのない皇室慣習、しきたりは今より強烈だった、と、思います。

秋篠宮殿下の「憲法では結婚は・・」などの駆け落ち婚、応援、言い訳はつかえません。

通子さまが結婚したときはすでに通子さんは平民だから、国から一時金は出ない。

それでも結婚の意思は変わりません。

完全な勘当処分、以後一切皇室に近づくな、寄るな触れるな、と絶縁

最後の最後、病に伏していた久邇宮朝融王(あさあきらおう)が枕辺で結婚をみとめますが、条件は 勘当 でした。以後、一切、宮家とは接してはならぬ、今後、家の敷居は二度と跨がない、他の宮家、皇族との交際も認めない、連絡もしない、手紙も書いてこないようにという決然とした離別宣言です。

昭和34年、1959年王女は家を出て結婚しました、26歳です。彼氏は27歳。

恋人の長岡義久氏(故人)は・・・。

昭和7年6月福岡市生まれ。小学校は諸所を転々、中学時は在名古屋。(終戦後上京、生涯転居23回)。学習院大学在学中から、川端康成・夏目漱石に傾倒。40年のサラリーマン生活を経て、定年後「読売カルチャーセンター」にて武田勝彦講師(早稲田大学名誉教授・比較文学)の文学講座に出逢い、同教授に私淑。その縁にて、文芸評論家として文藝春秋・公評などに論評を掲載。「坂」についての思い入れ深く、知友に日本坂学会会長・副会長があり、諸所の話を聞くのを楽しみとした。・・著書『もう一度、一緒にあの坂を』より転載。

いわゆる文学青年でしたが、結婚後は一日残業5時間以上でもこなす働きぶりでした。収入を上げて彼女に夢のような過去をよみがえらせてあげたい。しかし、これが徒(あだ)になります。

通子さまは「働く女性」となることを数年前に決意していました。津田義塾で英文タイプを習い、首席という優秀な成績で卒業、大協石油(現・コスモ石油)に入社します。結婚後は生まれてはじめての毎日の掃除、洗濯、家事をこなしながらの暮らしを・・・。

2万坪の豪邸から、一転、新居は飯田橋の2Kアパート

2万坪の渋谷豪邸から、一転、新居は飯田橋の間取り2Kのアパートでした。上皇陛下とは、いとこ同士で学習院幼稚園の同級生、上皇陛下(当時、皇太子)のお妃候補として名前が挙がったことがあった通子さまです。正田美智子さまにちなみ、もうひとりの”ミチコ(通子)さま”といわれた方が2Kのアパートです。

ところで、眞子内親王にも賃貸アパートで暮らす覚悟がおあり・・か、どうか。彼氏、長岡義久氏も小室圭氏とはちがい本来の性格は富裕への渇望などまったくない実直な青年でした。

通子王女と長岡義久氏が結婚した1959年は現、上皇陛下(当時、皇太子)と正田美智子さまが結婚なされ、もうひとりのミチコ、通子王女は号泣されたと伝えられています。上へ向かう、下へ向かう、彼我の別離へのさよならの涙だったのかもしれません。

しかし、残念ながら通子さま・長岡義久氏の結婚は4年で破綻、離婚となります。なぜか。性格の不一致・・・が露呈した、といわれていますが、

不肖ぼく(tomo)の推測です。・・彼、長岡義久氏は働きに働いて収入をあげ、彼女、通子さまが失った過去の栄誉を取り戻そうとしました。が、通子さまはそのようなことは望んでもいなかったのです。久邇宮朝融王(あさあきらおう)に勘当され、二度と皇室とは交際もしない、普通の、平民としての生き様を選んだのです。性根がおすわりなさっています。切り替えがパーフェクトです。

彼の目線は過去の夢にあったが、彼女の目線は足元にあったのです。

男は過去にこだわりますが女は過去には見向きもしません、現実に生きます。女は現実にあわせて変わることができます。豹変できます。目線が上と下では交差もしません。つまり、性格の不一致とあいなります。・・別れ話は通子さまから切り出し、彼、長岡義久氏も受け入れました。

ひとつ過ぎれば、ひとつ良いことがやってくる。

主婦になったプリンセスの再婚相手はは6歳年下の酒井省吾氏

その後、通子さんはとある専門図書の輸入会社に転職するのですが、ここで6歳年下の酒井省吾さんという後輩男性に仕事を教えるうち、彼から慕われるようになります。

堀江 そうなんですよね。ただ、酒井さんは学習院大の学生だった永岡さんにくらべ、本当に庶民的な男性だったようです。愛知県岡崎出身で、お父さんは牛乳販売店を営んでいる方だそうです。上智大学の哲学科出身ですが、入るのに3年浪人……。バイトしながらだったので、勉強時間が取れなかったのかもしれません。

大学在学中もバイト三昧で、実家からは「月1万円だけ」の仕送りだったとか。ちなみにこれらはすべて通子さんが、河原敏明さんという皇室ジャーナリスト第一号のインタビューに語っていることです。

(“主婦”になったプリンセスの結婚・離婚・再婚)引用

https://www.cyzowoman.com/2021/07/post_346520_2.html

酒井省吾・通子

写真:後列左、酒井省吾。前列・通子。

光陰矢の如し、です。

駆け落ちした久邇通子さん元皇族46歳

写真:通子さん、46歳。女性自身の取材を受ける。

その後、現在、88歳でお元気でお暮らしのようですが、確認はとれませんでした。

まとめ

皇室からの駆け落ち、駆け下りの唯一の例といわれる久邇宮通子王女のこれまでの人生をまとめてみました。通子さん46歳の記事(女性自身)写真をみていると、ああ、これで良かったんだ、とホッとします。覚悟があれば、どのような激変でも生きていける・・・と。

秋篠宮眞子内親王、さてどのような人生をお歩みになるのか? 秋篠宮殿下、紀子妃がどうのように対応なされるのか? 上皇陛下、今上陛下もご心配だとおもいます。

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