↑ 剱岳点の記
点の記・・とは三角点石柱(標石重さ65キロ)が埋められた「記」です。三角点の戸籍原簿ですが、ただし一、二、三等三角点が対象であり、四等は公式「記」には残りません。
映画「剱岳点の記」(原作、新田次郎「剱岳点の記」)で知られる 剱岳点の記 は柴崎芳太郎測量隊の初登頂(明治40年)の記録ですが、初登頂ルート開拓では、65キロもの重量運搬はできず、4等の標高表示が限界でした。4等は公式記録の「記」には残りません。
柴崎測量隊の初登頂から100年後に完成した「剱岳点の記」
テントを熊に襲われ米をごっそり奪われたり、暴風雨で凍死寸前・・、岩場を裸足で足指でよじ登ったり、不思議な霊的な修験行者にルートへの重要ヒントを授かったり、
いわゆる筆舌に尽くしがたい記録は原作新田次郎で知ることができます。
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これが100年後にヘリコプターが運んだ三角点石柱(標石)
しかし、柴崎測量隊の苦労、激務は報われます。100年後に、剣岳初登頂100周年事業として「三等三角点石柱」設置が行われた。
100年、時代の変遷は大きく、100年後はヘリコプターで剣岳山頂へ運ばれました。
これが、そうです。 ↓
15センチ角 長さ79センチ 重量65キロ (三等三角点標石)
https://www.gsi.go.jp/sokuchikijun/sankaku-QA.html 国土地理院
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ヘリコプターでの運搬経緯は、
剱岳の三角点 測量技術センター関西支所 山田明 https://jsurvey.jp/tsurugidake/sankakuten.htm に詳述されています。抜粋で紹介します。
平成15年4月、北陸地方測量部に異動となり、平成19年が柴崎測量の剱岳測量登山からちょうど100年になることを知った。 年が明けて翌年1月29日、明治の測量官、柴崎芳太郎氏の長男、芳博氏の夫人である芳子さんから電話がかかってきた。次の週に東京で お会いすることがこの時決まった。なお、全くの偶然であるのだが、この日は柴崎芳太郎氏の祥月命日である。2月になって、つくば市に ある国土地理院で会議があり、それに出席した私は富山への帰りの挨拶を兼ねて、測地部長室で当時の小牧部長にお会いし、剱岳に三角点 を設置する話が北陸地方測量部であることをお知らせした。この時点では具体的には何も決まっておらず、場合によっては四等三角点を埋 めることも案としてはあったのだが、三等三角点にすべきというのが部長のお考えであった。この時から、「三等三角点を剱岳に!」とい うことが私の頭から離れなくなった。
富山に帰って次の年度の作業として正式に4月からスタートできるよう準備を整え、日程も決めていく。できるだけ地元を巻き込んでの イベントにしたいということから、実行委員会を作って新年度がスタートした。剱岳に三角点を設置することを記者発表すると、このこと がテレビ、ラジオ、新聞に頻繁に登場するようになった。委員会のメンバーでもあった上市町では毎年6月1日に安全登山と遭難した人の 慰霊のための山開きが、剱岳早月尾根の登山基地、馬場島で行われる。この時、山頂に設置する予定の三角点を持ち込んで、上市町の了解 を得て作業安全のためのお祓いを受ける。赤白の測旗に包まれた台に鎮座し、赤白の花を胸に飾った三角点は集まった人と一緒に写真に収 まっていた。(写真)私たち基準点測量に携わる者にはごく普通に目にすることではあるが、三角点が全身をさらして一般の人の目に触れ るのは珍しいことである。
7月24日、夏休みに入った最初の土曜日、立山町からの登山基地、室堂に集まった55人による、三角点の運搬が行われた。当初100 人の高校生に担がせたいとの構想は崩れてしまったが、4人の富山西高校の生徒、国土交通大学校の測量部、北陸工業専門学校、新潟工科 専門学校の生徒さん達が参加、雷鳥沢キャンプ場までの2kmを事故もなくリレーしながら63kgの三角点を運んだ。一般の人を巻き込 んだイベントであり、主催者側としては、最も緊張した2時間であった。55人には剱岳の観測終了後、それぞれの名前が運搬者として入 った「三等三角点 剱岳点の記」をお送りした。この後三角点はヘリコプターによって剱岳の山頂に運ばれた。
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まとめ
山頂へのルートが不明で弘法大師がワラジ3000足履きつぶしても失敗したと伝わる剣岳でした。明治時代の柴崎測量隊は艱難辛苦のすえ登頂に成功した。
比較しての「ヘリコプター運搬」は肉体的には楽ですが・・しかし柴崎測量隊のおもいを完成させたいという「おもいの熱量」には頭がさがります。ありがとうございます。