伊集院静『ぼくのボールが君に届けば』あらすじに学ぶ新お母さんの立つ位置

父子家庭に新しい女性が入ってくるとどうなるでしょう

短編野球小説『ぼくのボールが君に届けば』(伊集院静)のボールは野球ボールですが、登場人物たちのそれぞれの思いを象徴してもいます。それぞれの思いが、それぞれの愛がそれぞれにどう届くのか。

父親ミツルも子トオル(七歳)も野球が大好きです。二人ともどちらかというと運動神経は今ひとつです。

登場人物は父の会社(機械工場)の上司で野球部元監督の善さん、父に惚れた未亡人サチコさんとその母、そして物語の発端と締めを担う少女とその弟ソウ君です。トオルと同い年の弟ソウ君は長期入院中です。サチコさんの母は一人だけ意地悪な役回りで際立ちますが、なぜそうなったかも書かれています。負印象な人物への著者のやさしさを感じます。

年少組野球少年トオルはグランド奥の草むらで拾った人形を交番に届けます。片腕がもげて無くなっていますが、落とした人が探しているというトオルの真剣さにお巡りさんが拾得物として正式に預かってくれます。何日後かに交番へ可愛い少女が現れます。療養中の弟の人形だったのです。車椅子での散歩中に病気の長期化に苛立つ弟が人形を放り投げたのです。トオルが日々練習しているグランドから遠くにそのソウ君の病室が小さく見えます。ソウ君も野球が大好きです。

「ぼくがホームランを打ってキミのところまでボールを届ける」―トオルは姉弟と三人だけの内緒の約束を交わします。

亡妻の七回忌が過ぎるまで手も握らなかった父ミツルがサチコさんに一緒になろうと告げます。父、サチコさん、トオルの三人家族になります。最年長で勝手気ままな一人暮らしの善さんも家族同様です。ホームランの約束にむかって単打も満足に打てないトオルの猛練習が始まります。善さん、父、さらには元ソフトボール選手のサチコさんも巻き込みます。サチコさんが善さんに聞きます、「トオル君は名選手になれそうですか?」。善さんが答えます。

勝つことだけが目的なら野球なんてつまらない

「・・名選手になったり、プロ野球選手になることが目的で野球をしなくっていいんだよ。勝つことだけが目的なら野球なんてつまらないものだ。ボールにむかっていくことが誰かのためになってるのが素晴らしいんだ。トオル君もやがてそれがわかる時がくる。皆が見ているボールには、皆の ここ が一緒に飛んだり弾んだりしてるんだ・・」

皆が見ているボールには、皆の ここ が一緒に飛んだり弾んだりしている。

そうなんだ ここ と胸を指差す善さんです。野球の面白さをこう説くとは、・・しびれますね。ああ、ぼくの好きな山登りって何が面白いんだろうかと悩みます、こんど本気で自問してみたいと思いました。あ、私事がまぎれこんだ。それはさておき。

猛特訓の成果もなかなか上がらない。ホームランは打てない。一生懸命に練習を続けるトオル君です。ある日、年少組のゲームで人生初の長打、二塁打を放ちます。うれしいです。大喜びの善さん、サチコさん、トオル、父。でも・・・病室のソウ君に見えただろうか、そういえば少女はどうしたのか・・・気にするトオルにサチコさんは、「きっと見てるわよ。ちゃんと届いてるわ」と励まします。知人を通じて病院に問い合わせてみようかと考えます。しかし、確かめるのを止めました。もっと大切なことがあるのではないか。

洗いざらい調べて知ること、知らせることでしか良い結果が得られないのだろうか。

いいえ、そうとは限らない。

・・・大切なことは青空に舞い上がったボールを、皆の思いが込もったボールを、見上げていることだ・・・。

トオルたちの練習を草むらに座り、なにげに見ていたさちこさんの足元にボールが転がってきます。

「ママ、ボールを取ってよ」

ママ。・・。ママ。

これまでトオルの口から出るママは亡き母のことだけでした。ボールを投げ返そうとしたさちこさん。トオルの姿がにじむ涙でぼやけてきます。・・・泣けるようになったら家族だよ・・・後添えの微妙さに迷っていた時にかけてくれた善さんの言葉です。ここまでで物語は終わります。

それぞれの思いが、それぞれの愛がそれぞれに届いて・・父子家庭が父母子そろった家庭に変化した瞬間があざやかに丹念に描かれています。

早春のあたたかい風が、そこでそのまま陽だまりと一緒にとどまっているような心地よさを感じる小説です。

まとめ  家庭小説&野球小説

母子家庭とよく言いますが父子家庭は母子家庭ほどには話題にならない。世帯数は母子家庭が約75万家庭で父子家庭は一割ほどの8万家庭ですから、ま、当然といえば当然ですね。この短編小説はふつうには野球小説として読まれていますが、父子家庭小説としても楽しめます。

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コメント

  1. ケイ より:

    感動しました。

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