【たそがれ清兵衛】あらすじ感想。映画と藤沢周平原作との比較、違い。

映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)は2002年公開、国内興行収入は12億円を記録し、「七人の侍」を超えたとも評価された・・・と言われます。作品的には「七人の侍」の圧倒的な迫力を超えてはいないと個人的には思います。山田洋次監督は迫力よりも丹念に丁寧に描いたと思います。

「たそがれ清兵衛」は山田洋次監督の藤沢周平原作時代劇三部作の第一部です。退屈させず引き込む手腕はさすがです。特に導入部の真っ黒い画面から聞こえる音がいいです、好きです。

映画では清兵衛は妻を亡くしますが原作小説では妻は生きています。

ネタバレ、あらすじは・・・

幕末の庄内、海坂藩。平侍の井口清兵衛(真田広之)は妻を亡くし、二人の娘と老母のために下城の太鼓が鳴ると家路を急ぐ毎日。同僚たちはそんな彼を“たそがれ清兵衛”と呼んでいた。ある日、幼なじみの朋江(宮沢りえ)を救ったことから剣の腕が噂になり、上意討ちの討手として清兵衛が選ばれてしまう。清兵衛は藩命に逆らえず、朋江への想いを打ち明け、切腹を不服とする余吾膳右衛門(田中泯)が立てこもる死地に向かった・・・・・・。

原作小説「たそがれ清兵衛」では、妻は生きています。病身で寝たきりの妻(労咳・ろうがい。結核)との二人暮らしです。

下城の太鼓が鳴ると、井口清兵衛はすばやく手元の書類を片づけ、詰所の誰よりも早く部屋を出た。部屋の出口で、もごもごと帰りの挨拶を言ったが、それに答える者もなく、またとくに清兵衛に眼をとめる者もいなかった。清兵衛の帰りが早いことには、みんなすっかり慣れっこになっているのである。

下城の太鼓のようなリズムの心地よい文章ですね。

一日の仕事を終えてほっと、気の張り詰めから解き放たれる。夕方、たそがれ時です。清兵衛はいそぐ足取りでもなく、一定の足のはこびで青物屋で葱(ねぎ)を買い、つぎに豆腐を買い、家にむかいます。

家では奥に「もどったぞ」と声だけかけて台所で夕餉のしたくをしてから、妻女の世話をします。そして家の中の掃除をします。ほかにひともいない家だからやむを得ない。・・・原作「たそがれ清兵衛」ではそういう設定です。ひとりの下級武士が寝たきり妻との日常のリフレインという世間のうごきとは距離のある暮らしです。清々しさがあります。

映画の方は、最初は異臭ただよう汚らしい人物として登場しますね。この設定は「たそがれ清兵衛」ではなく、原作「祝い人助八」(ほいとにんすけはち)です。ほいと、とは物乞い、乞食のことです。

映画のクレジットタイトルにも出てくるように映画版「たそがれ清兵衛」は、藤沢周平原作小説の「たそがれ清兵衛」「祝い人助八」(ほいとにんすけはち)「竹光始末」の3つの短編小説を合わせて一本のストーリーに纏(まと)めあげています。

映画タイトルは「たそがれ清兵衛」で正解だと思います。「ほいと助八」がタイトルでは、「たそがれ清兵衛」のような詩情ロマンがただよいません。

幼なじみの彼女(宮沢りえ)との愛が映画でも原作でも泣かせます。

原作小説「たそがれ清兵衛」では、上意討ちを命じられた清兵衛の帰りを待っていたのは病が奇跡的に癒えて立てるようになった妻でした。

映画では嫁ぎ先が決まったのでお帰りまでは待てないと言っていた宮沢りえ(幼なじみ・波津)が手傷を負った彼を迎えます。

幼なじみだからこそ男女の切ない愛が表現できたとも言えます。宮沢りえ好演で評判の助八の幼なじみの彼女、波津(はつ)、原作小説「祝い人助八」でもくわしく描かれています。

助八の本名は伊部助八、五十石どりの貧乏武士ですがお城勤めには忠勤です。

むろん物乞いをして回ったわけではなく、もっぱら身なりの汚さが原因での渾名(あだな)です。髪もめったに結わずひげもきちんとは剃らない。勤めは、年貢米を収納する御蔵ですから滅多にひととは会わなくてすみますが、藩主が急な思いつきで御蔵を視察したとき・・・「なにか臭うな」と藩主が鼻をひきつかせ助八の体臭に気づいた・・・。

「におうのは助八か」
「はい」
助八の顔がまっかになり、つぎに青くなった。助八の顔には、あちこちに剃り残しの長いひげが残っていて、よく見れば頬もあごも生傷(なまきず)だらけである。藩主が見回りに来ると聞いてから、大あわてでおそらくは小刀(こがたな)か何かでひげを剃ったとひと目でわかる体(てい)たらくだった。

妻を二年前に病気で亡くし・・・原作は「やもめ(ひとり)暮らし」ですが、

映画は痴呆の母と二人の幼い娘がいます。伊部助八のうらぶれた姿のやむえなさを映画では家族構成でも見せたかったのでしょうね。

原作では生前の妻は、助八が手を焼いたとんでもない悪妻で、没後に助八がにわかにうす汚れて来たのは、亡妻の手きびしい干渉から解放されて、いささか暮らしの箍(たが)がはずれたせいもある・・・と書かれています。

映画、壮烈果し合いは短編小説「竹光始末」&山田洋次オリジナルです。

最後の果し合いシーン、すごい迫力でした。清兵衛の刀が「竹光」と知って急に襲いかかる余吾善衛門・・・原作「竹光始末」の余吾善衛門は剣にはまったく自信がなく、逃げるから見逃してくれと頼みます。しかし大刀が竹光とわかり勝てると思ったのです。

「竹光始末」の主人公は小刀遣いの名手だった・・・。

ああ、無惨。

小刀遣いの名手は映画の設定もおなじです。

ただし映画の余吾善衛門は名だたる「剣客」として描かれています。剣客という設定は「祝い人助八」(ほいとにんすけはち)で助八が対峙する相手が剣客だからですね。ま、いいとこどりの設定です。

原作「祝い人助八」(ほいとにんすけはち)での果し合いシーンは、空白の一行です。空白の一行のあとに、

四つん這いの形で肩の間に深く首を垂れたまま、助八は全身で喘(あえ)いだ。

およそ一刻(二時間)におよぶ斬り合い・・・喘いでいるとは、生きているのです。相手はしずかに息もしていない・・・。みごとな表現ですが、映画ではそうはいきません。

ですので、映画の方は「山田洋次監督のオリジナル果し合い」です。剣客を演じた俳優&ダンサー(本人は肩書不要と主張)・田中泯(たなかみん)の不気味な演技力もすごかった。このひとの演技力は半端ないですね。

真田広之(清兵衛)が殺(や)られる・・・とハラハラしました。

しかし、しかし、最後、田中泯演じる余吾善衛門の大刀が鴨居に引っかかり、清兵衛の小刀に切られる・・・なんで! 鴨居に? そんな剣客がいるのか!?と個人的には思いました。あれは死ぬ気の剣客を表現しているとの解釈もあるようですが、どうでしょうか?

余談、脱線話ですが、むかし三島由紀夫さんが居合刀の実演を披露したところ鴨居に引っかかた、という微笑話(石原慎太郎さん談話)を思い出しました。三島由紀夫さんは握力があまりなかったそうです。運動神経もいまいち、とは学生時代サッカー選手だった石原さんの評価ですが。

映画では、後日談として清兵衛が官軍の銃で死亡したとありましたが、原作には一切ありません。これも映画オリジナルです。山田洋次監督の頭には、時代劇は、その時代を描くべきという想いがあったのかもしれませんね。

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