森崎東の死因や家族(兄は特攻隊員)経歴は?現在どうしていた?【画像】

映画「男はつらいよ」の第一作脚本も手がけ、生涯32本もの映画製作に携わってきた映画監督森崎東(もりさきあづま)さんが2020年7月16日に亡くなられました。昭和、平成、令和と三世代を山田洋次監督らと共に人情ドラマなどを中心に日本映画をささえきた巨匠です。

写真:出典はスポーツニッポン。自宅テラスでくつろぐ森崎東監督。

長崎県島原市に生まれ、京都大学卒業後、56年松竹入り、大曽根辰保監督や野村芳太郎監督の下で学び、山田洋次さんと共に「男はつらいよ」第1作の脚本を担当。69年の監督デビュー作「喜劇 女は度胸」でデビュしました。一貫して喜劇ドラマに軸足を置き、視点はいつも庶民の立ち位置にありました。優しくて、しかし豪快さもある方でした。

認知症の噂はウソ!死因は脳梗塞。92歳でした。

ネットでは認知症?の噂もありましたがウソです。遺作となった2013年 漫画エッセイ原作の映画『ペコロスの母に会いに行く』が認知症がテーマになっていたためだと思われます。

”愛おしくて、ホロリ切ない僕らの毎日”・・・遺作映画のキャッチコピーですが、ここ近年は家族とともにそのような日々を送られていたようです。

森崎さんと松竹で映画製作をともにした山田洋次監督(88)の追悼コメントです。

「松竹の助監督時代からの長い付き合いの中で、僕は彼にどれほどたくさんのことを教えてもらったか分からない。頭脳明晰(めいせき)、学識豊かな知識人であり、思いやりにあふれた豪快な九州男児だった。その魅力的な人柄は彼の作品に鮮やかに反映されて、森崎喜劇という誰にもマネの出来ないジャンルを確立した。最後の作品となった『ペコロスの母』がキネマ旬報のベスト・テンの1位に選ばれたことは彼にとって、大きな名誉だったに違いない。大勢の森崎ファンとともに、彼の死を悲しみます。山田洋次」

近年は体調すぐれず、2014年に『黒木太郎の愛と冒険』(1977年作品)上映イベントに体調不良を押して途中参加されましたが、以後は自宅で療養されていました。

告別式は近親者で行われます。喪主は妻、芙美子さん。

森崎東氏の兄は特攻隊員で終戦時に割腹自決。

森崎東監督は一九二七年生まれで、一七歳で敗戦の日を迎えたという時代の、映画作家である。日本が戦いに敗れた日の翌日、当時海軍予備学生出身の特攻隊員だった彼の次兄の森崎湊が、割腹死している。この時の彼の思いは、後に彼がATGと提携して作った映画『黒木太郎の愛と冒険』(一九七七)に、色濃く影を落としている。この作品の中に出てくる『遺書』という本は、その次兄、森崎湊の遺稿を一冊にまとめたものである。

出典:白井佳夫著『監督の椅子』

昭和20年(1945年)8月16 日次兄・湊氏割腹。ショックと同時に“えヱカッコしやがって”と思った。(キネマ旬報1973年4月下旬603号よりp・135)

森崎東監督の経歴。【画像】

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1927年 長崎県島原市に生まれ。京都大学法学部を卒業。

1956年 松竹京都撮影所入社。

1965年 松竹大船撮影所に移籍。大曽根辰保監督や野村芳太郎監督の下で学ぶ。山田洋次監督の助監督、脚本を手がける。

1969年 山田洋次と共に「男はつらいよ」第1作の脚本執筆。

『喜劇 女は度胸』で監督デビュー。

1971年 『喜劇・女は男のふるさとヨ』監督。森繁久彌主演。

1974年 フリーとなる。

1977年 『黒木太郎の愛と冒険』監督。学生の伊藤裕一を脚本製作に誘い、映画監督を目指す青年「伊藤銃一」役として起用。


**伊藤 裕一(いとう ゆういち、1984年3月25日 – )は、日本の俳優、脚本家、演出家、モデル。劇団お座敷コブラ元主宰。

1983年 夏目雅子主演「時代屋の女房」監督、大ヒット。

1985年 『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』監督。
**主演の倍賞美津子が、第9回日本アカデミー賞で『恋文』『友よ、静かに瞑れ』とともに、第59回キネマ旬報ベスト・テンと第40回毎日映画コンクール最優秀主演女優賞

1996年 『美味しんぼ』を監督。

2003年  第4回東京フィルメックス審査員を務める。

2004年 『ニワトリはハダシだ』が第17回東京国際映画祭コンペティション部門に出品、最優秀芸術貢献賞を受賞。

2005年 芸術選奨文科大臣賞受賞。

2013年 漫画エッセイ原作『ペコロスの母に会いに行く』を監督。第87回キネマ旬報ベスト・テン日本映画1位。遺作。

2014年 『黒木太郎の愛と冒険』(1977年作品)上映イベントに体調不良を押して途中参加。

2020年7月16日、神奈川県茅ヶ崎市内の病院で死亡。脳梗塞。92歳没。

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あらためてご冥福をお祈りします。ありがとうございました。

佐藤浩市 岩松了 加瀬亮 平田満など俳優みなさんの追悼コメント続々

▼佐藤浩市(父・三國連太郎さんとの初共演が話題となった「美味しんぼ」に主演) 「美味しんぼ」では僕と三國でご苦労をお掛けしたことと思います。「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」、「喜劇 女売り出します」など好きな森崎作品は多々あり、久しぶりに拝観したくなりました。本当にお疲れさまでした。</span>

▼岩松了(俳優、「ペコロスの母に会いに行く」出演)ショックです。「ペコロス~」の後にもう一本撮りたいとおっしゃってたのに、それもかなわず残念です。同じ長崎県の出身だということを話した時の穏やかな笑顔が忘れられません。遺作となってしまった映画に主演させていただいたのが今は誇りです。

▼加瀬亮(俳優、「ペコロスの母に会いに行く」出演)今はまだ言葉がまとまりません。森崎東監督と出会い、ご指導いただいたことは自分にとって宝物のような思い出です。また仕事でご一緒できることをずっと心の励みにしていました。

▼平田満(「時代屋の女房」などに出演)森崎監督の訃報を知り、ぼう然としています。何となく気になっていましたが、もうお会いできないと思うと寂しくてなりません。30代から何本か森崎組に出させていただきましたが、監督の人柄を慕うスタッフ、キャストとの飲めや歌えのロケは、忘れられない思い出です。魅力的な監督がまたひとりいなくなってしまいました。

Sponichi Annex(2020年7月18日)掲載

映画作品の年代順リスト。(出典:Wikipedia)

女の一生(1967年)- 脚本
喜劇 夫婦善哉(1968年)- 脚本
惚れた強み(1968年)- 脚本
こわしや甚六(1968年)- 脚本
吹けば飛ぶよな男だが(1968年)- 脚本
日本ゲリラ時代(1968年)- 脚本
喜劇 一発大必勝(1969年)- 脚本
男はつらいよ(1969年) – 脚本
ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓(1969年)- 脚本
喜劇 女は度胸(1969年)- 監督・脚本
喜劇 男は愛嬌(1970年)- 監督・脚本
男はつらいよ フーテンの寅(1970年)- 監督
喜劇 女生きてます(1971年)- 監督・脚本
喜劇 女は男のふるさとヨ(1971年)- 監督・脚本
喜劇 女売り出します(1972年)- 監督・脚本
生まれかわった為五郎(1972年)- 監督・脚本
女生きてます 盛り場渡り鳥(1972年)- 監督・脚本
野良犬(1973年)- 監督
藍より青く(1973年)- 監督・脚本
街の灯(1974年)- 監督・脚本
メス(1974年)- 脚本
喜劇 特出しヒモ天国(1975年)- 監督
黒木太郎の愛と冒険(1977年)- 監督・脚本
ダンプ渡り鳥(1981年)- 脚本
時代屋の女房(1983年)- 監督
ロケーション(1984年)- 監督・脚本
生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言(1985年)- 監督・脚本
塀の中の懲りない面々(1987年)- 監督
女咲かせます(1987年)- 監督・脚本
夢見通りの人々(1989年)- 監督
釣りバカ日誌スペシャル(1994年)- 監督
美味しんぼ(1996年)- 監督
ソクラテス(1996年)- 脚本
ラブ・レター(1998年)- 監督
世界の終わりという名の雑貨店(2001年)- 出演
白い犬とワルツを(2002年)- 脚本
ニワトリはハダシだ(2004年)- 監督・脚本
ペコロスの母に会いに行く(2013年)- 監督

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