横溝正史『雪割草』は戦時下という時代背景が切ない!
横溝正史『雪割草』は読み出すと止まらなくなります。
おもしろいのです。
戦争中の人々がお国のためにと想う姿も描写されています。それを時局迎合という後出しジャンケンのような同情ふうの中傷はずるいです。
昭和16年6月12日から同年12月29日にわたり「新潟毎日新聞」に掲載された“幻の新聞連載小説”ですね。日本とアメリカとの開戦が昭和16年12月8日ですから日支事変からの戦時のま只中(ただなか)です。“幻の”と謳(うた)われているのは平成30年(2018年)に単行本出版されるまで77年間も原紙が新潟図書館に眠っていた。誰の目にも触れることがなかったのです。
横溝正史といえば「八ツ墓村」「獄門島」「犬神家の一族」などおどろおどろしい題材で読者を震えあがらせる探偵小説作家です。恐ろしい場面を真夜中におもいついた横溝正史が「怖いぞ、怖い」と家族を起こし本気で怖がっていたというエピソードもあるくらいです。
『雪割草』でもきっと怖いシーンもあるだろうと期待していたのですが・・。
あ~違う~これは、と100頁近くも読んで気づいたのです。一般家庭向きの“家庭小説”というジャンルだそうです。雪割草は雪解けのころに雪の下からひっそり花を咲かせる・・・花言葉が「はにかみ屋」「あなたを信じます」・・・
うわ~、これは違う、読むの止めた~とページを閉じたのです。が、また開いてしまったのです。話の行く先がどうしても気になって、気になって。
縁談を直前に破棄されるヒロイン有為。あらすじは一転二転。どんでん返しも。
話の舞台は信州、上諏訪。地元のお金持ちとの縁談が直前になって破棄されたヒロイン有為子。母の実子ですが父は不明の私生児であることが先方に知られたのが原因です。
育ての父も実の母も亡くなり、実父を探すために有為子は一人、東京へ旅立ちます。
身を寄せた縁者夫妻に騙されお金を巻き上げられる。世をはかなみ自殺しようとするが旧知の人に助けられる。悪人もいるが、善人も多く、やがて東京で結婚。新婚生活・・・が、夫(日本画家)が病に倒れどん底の極貧生活です。
注:この夫が 金田一耕助の原型と本の帯に紹介されています。ぼく個人は金田一耕助の原型とはまったく思えません・・・。ま、いいや。『雪割草』の広報にはもってこいの話ですからね。話元へ・・・。
禍福はあざなえる縄の如し。良いことも悪いことも交互にくり返します。ヒロイン有為子さんの実父がわかります。夫の師匠で、弟子多数を抱える超ビックな日本画家でした。メデタシメデタシで終わるかと思いきや終わらない。この大物画家の妻が有為子を虐(いじ)めまくります。それを助けるのがじつは父違いの妹だったりします。
その他あの手この手の禍福で読み手をぐいぐい引っ張るのです。まいりました、降参です。横溝正史はさすが、すごいストーリーテーラーです。探偵小説でなくても天才ぶりはいかなく発揮されるのです。
ストーリーの最後は敵役も改心し、すべてはハッピーエンド。大団円です。めでたい、めでたい、皆さんも安心してお国のために戦ってください。ああ、ほっとしました。よろこんで戦います。咲いた花なら散るのは覚悟♪♪ と、いう戦時下の人々の感情にシンパシーさえおぼえさせる名文調です。すなおな心持ちになります・・・。
新聞連載180回、原稿用紙800枚の長編小説を一気読みしてしまいました。
最終シーンは有為子の夫が再起をはかって絵筆を取ります。
戦争に行くのは人だけではありません。馬もです。儀作爺さんの愛馬「あお」も、です。
・・・お国のために召されていく征馬(注:せいば。戦場におもむく馬)の姿、それが忽然として、冷え切っていた良人(夫)の画家魂を呼び起こしたのだ。いやいや、三人の愛児を皇国に捧げ、いままた笑って愛馬をゆかせようとする、儀作爺さんの魂が、声あって良人を叱咤し、鞭撻してくれたのかもしれない・・・(388ページ)
・・・私はね、描かずにはいられなくなったから画(えが)いているんだ。儀作爺さんがあのあおを牽(ひ)て立っているのを見た刹那、何とも云えない強い力に打たれた。そこに人間の大きな犠牲と忍苦の姿がある。笑って、甘んじて国家に奉仕しようとする強い魂がある。日本人なら誰でもあれを見て、奮い立たずにいられないのだ・・・(391ページ)
『雪割草』を時局迎合と説くのは後出しジャンケン。
『雪割草』を時局迎合と説くのは、後出しジャンケン、とぼくは思います。
迎合は非難、批判、あるいは中傷です。迎合とは、自分の考えをまげても、他人の意に従って気に入られるようとすることです。
時局とは、時世のありさま。そのときの世の中の状態・三省堂『大辞林 第三版』とあります。大きく括って 時代 と言い換えても間違いではないと思います。ま、時代は江戸時代、奈良時代などなど、きわめて多数年を表しもしますが、時局は年数は限定的です。
迎合だけであの長編を書けるとは思いません。迎合ではなく横溝正史は、時局、時代を生きる人の心を描写したのです。良い悪いの問題ではありません。だからおもしろいのです。
ぼくは、あの時代、戦時下の一般エンタメ小説はまったく読んでいません。あの時代は知りません。ですから何が正解かわかりませんが、少なくても『雪割草』が、時局迎合小説ではないと断言したいと思います。
時局迎合などのことばをつかうなら、戦後のアメリカ占領軍の徹底した言論統制の時代、時局に書かれた戦後小説もまた時局迎合ということになってしまいます。
戦後派作家は硬軟問わず左翼が多く・・・ウィキペディアは説くが、
スターリンを賛美した詩『星の歩み』『スターリン』を執筆した野間宏、
戦時下で特攻に配属されたが戦後は一切黙秘した梅崎春生、
「考えてみれば人間の自由が僕の一生の課題であるらしい」と碑に刻まれている椎名麟三、
昭和21年『死の影の下に』で戦後の文学を歩み始めた中村真一郎、
映画『モスラ』の原作となる『発光妖精とモスラ』を執筆した福永武彦
これらの才筆すばらしいリスペクトされるべき第一次戦後派作家の作品も 時局迎合 と括ることになります。もちろんそのような括りには大反対です。
作品は公表された時点で作家の手を離れます。ですから、どう批判、非難されても致し方ないのかもしれませんが・・・迎合(自分の考えをまげても、他人の意に従って気に入られるようとする)・・・という中傷は止めるべきでしょうね。
まとめ 旅立つ者には希望が。見送る者には淋しさが。
そんなこんなの批判や非難、中傷など吹っ飛ばすくらいに楽しめる『雪割草』です。文章の綾(あや)がうまい、上手です。名調子の講談を耳にしているような心地よさです。
・・「遠くへ旅立つ人を見送ったあと誰でもが感じる空虚な淋しさが、いま、ひしひしと二人の胸に喰いいって来る」「旅立つものにはまだ希望がある。残された者にこそ憂いはいっそう深かった」(54ページ)
・・「こうして、人さまざまな想いを乗せて汽車は高原を走りつづけている」(57ページ)
・・「そのあたり、どこか土臭い田舎娘の、へまな安化粧を見るような感じがあるという。そこが五反田だった」(59ページ)
・・「空は美しく晴れ渡って、雪に覆われた富士の秀峰が荘厳とも端麗ともいいようがないのである」(389ページ)
このまま朗読すれば連続ラジオドラマになりそうな心地良い響きです。暇暇な折にでも、たっぷり楽しんでくださいね。枕元にでも置いておくと大長編なので睡眠薬がわりになるかもしれません。家庭小説ですので怖い話はでてこない。大団円です。夢見もよいとおもいます。探偵小説横溝正史だと、怖くて寝れなくなったりもしますが・・・薄笑