森鴎外の小説は漢字だらけで改行もないし、雅文(平安時代風の古文)で私にはムリムリ、理解不能と思っていましたが、阿部一族の冒頭書き出しを読んでハマりました。面白いです。
従四位下左近近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、余所よりは早く咲く領地肥後国の花を見棄てて、
何か妙に迫力があります。特に花を見棄てて・・見棄てて、に惹かれたのです。緊張感伝わる言葉です。花、桜、見棄てて。
肥後国(熊本)殿様、細川忠利の亡き後、藩士19人が後追い。
え? なんで?
肥後国(熊本)殿様、細川忠利の亡きを追い家来の藩士、19人が殉死します。
史実とは異なるの説もあるとWikipediaにありますが、Wikipediaの紹介する「あらすじ」は、こうです。
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「寛永18年(1641年)、肥後藩主細川忠利の病状が悪化し、側近たちは次々と殉死を願い出た。老臣の阿部弥一右衛門もまた殉死の許可を乞うが、謹厳な彼を昔からけむたがっていた忠利は「生きて新藩主を助けよ」と遺言し、許可は出ないまま忠利は死去する。そのため、旧臣たちが次々と殉死してゆく中で、弥一右衛門は以前どおり勤務していた。
だが彼が命を惜しんでいるかのような家中の評判を耳にしたことから、一族を集め、彼らの面前で切腹を遂げる。
しかし、遺命に背いたことが問題となり、阿部家は藩から殉死者の遺族として扱われず、家格を落とす処分をされた。鬱憤をつのらせた長男の権兵衛は、忠利の一周忌法要の席上で髻を切り、非礼を咎められて捕縛され、盗賊同様に縛り首とされた。
藩から一族に加えられた度重なる恥辱に、次男の弥五兵衛はじめ一族は、覚悟を決して屋敷に立てこもり、藩のさし向けた討手と死闘を展開して全滅する」
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“正式”な殉死は、生前の殿様から許可を得なければならない。
殉死は殿様生前中に殿様から許可をもらわないと正式な殉死にはならない。 “正式”な殉死を果たせなかった阿部一族が結局は全滅する話です。
おおっと今、あべ、で入力変換したら、安倍首相と笑。いえ、話元へ。あっ、安倍首相一族全滅ではありませんので。
鴎外は一切の論評を挟まず記述します。生涯、鴎外に関心を抱きつづけた松本清張も、国文学者たちの阿部一族真贋論争には無関心でした。ちなみに松本清張の芥川賞受賞作『ある小倉日記伝』は軍医森林太郎(森鴎外)が小倉に左遷された頃の日記がテーマです。
それにしても、なぜ19人もの家来が嬉々として、殉死するのか。
鴎外の坦々とした、まるで雅文ハードボイルドタッチもどき迫力文章から、気になった面白い話をピックアップします。
・殿様荼毘(だび)の日に、殿様寵愛の鷹二羽が空から急降下し、井戸深く入り込み殉死した。
・猟犬に握り飯を与え、オマエも後追いしたいなら食うな、というと尻尾を振り食べなかったので、犬と一緒に殉死した。
・殉死18名の遺族・未亡人、老父母には扶持(ふち。給与)・・生涯給付金・・、家屋敷が与えられた。加増三百石を得た者もいた。
・阿部一族と最も親しかった隣家の柄本(つかもと)又七郎が“情は情、義は義”と隣の庭へ直接攻め込み手柄を得る。
(注:鴎外の「阿部一族」の元ネタ『阿部茶事談』は柄本又七郎の証言を基に書かれた)
一番、心を突いたのは、個人的には、気になったのは、注目は、
・・・殉死18名の遺族・未亡人、老父母には扶持(ふち。給与)・・生涯給付金・・、家屋敷が与えられた。加増三百石を得た者もいた。・・・この箇所です。
殉死者の遺族には手厚いご褒美(加増などの給付)があった。
死にたい死にたい、武士道と云うはは死ぬことと見つけたり。名誉のためには生き恥をさらすのはもってのほか。義のためには死で報いたい。しかも、現実問題として残る家族、遺族はどうなるのかという問題にはきちんとした見返り給付があった、ということです。
う~ん、不肖、
地位も名誉も称賛も縁のない貧すれば鈍する私でも、
残る遺族に手厚い給付があるのなら、それを信じていい時代なら、この命、与えられる名誉があるなら、引き換えに、棄てて、しまいます。と、神仏様ご先祖様に、マジレスしたくなってしまいます。嗚呼。
森鴎外・阿部一族は、殉死への非難批判に直接反論するのではなく小説という形で古の武家武士の感情をきっちり描いた作品です。命を棄てた人への賛否を理屈でこねまわしてどうするのか・・・かつて夢中になったヘミングウェイの短編ハードボイルド感覚に似ています。
まとめ 森鴎外 経歴・遺言
鴎外作品は不詳な単語が続出で近寄りがたい。でも、新潮文庫七十二頁にも及ぶ巻末注釈(274p~346p。阿部一族は311p~326p)のおかげで読めました。
注釈編集、千葉俊二(早稲田大学文学部名誉教授)様様です。感謝。これ博学、膨大な知識を基に、時間と労力を要する大仕事です。
森鴎外(本名・森林太郎)経歴は、これまた巻末付録「年譜」(371p~377p。文庫本二段組)で誕生(文久二年1862年一月十九日)から死去六十歳(大正十一年1922年七月九日午前七時)までを各年度ごとに丹念に書かれています。
写真:森鴎外・・・キレ者感、半端ないです。
5歳で論語、6歳で孟子、7歳で四書、8歳オランダ語・・・うわ~! 凄い。10歳でドイツ語。・・・12歳で東京医学校(現・東京大学医学部)生年詐称で入学。う~ん、やっぱり並外れた、近寄りがたい頭脳ですね。親の顔を見たい。
大雑把な経歴は、出典・新潮社の鴎外プロフィール
(1862-1922)本名・森林太郎。石見国鹿足郡津和野町に生れる。東大医学部卒業後、陸軍軍医に。1884(明治17)年から4年間ドイツへ留学。帰国後、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆。以後、軍人としては軍医総監へと昇進するが、内面では伝統的な家父長制と自我との矛盾に悩み、多数の小説・随想を発表する。近代日本文学を代表する作家の一人。主な作品に『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『ヰタ・セクスアリス』など。
墓表には遺言に従い「森林太郎」とのみ彫られている。
墓は東京都三鷹の禅林寺と島根県津和野(生地)の永明寺にあります。
鴎外の遺言。
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴戸君ナリ
コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人森 林太郎トシテ死セント欲ス
宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一字モホル可ラス
書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ
手續ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙モ許サス
大正十一年七月六日
森 林太郎言
賀古鶴戸書
森 林太郎
男 於菟
友人総代 賀古鶴戸
以上
総代 賀古鶴所
以上 出典:Wikisource