画家フランソワーズ・ジローさん101歳がアメリカで天寿まっとうされました。それにしても冠につくのは「ピカソの元愛人」です。ま、どっちが有名かというとピカソではありますし、ピカソの子供を2人産み育てていますから仕方ないといえば、そうです。
写真:フランソワーズ・ジロー 82歳当時
ピカソには10人の愛人と4人の子ども。正妻との間には1人。超天才、異能な人にありがちな典型的な例です
ピカソと一緒だと自分が壊れると予感したフランソワーズ・ジロー
パブロ・ピカソは生涯に2度の結婚をしていますが、恋人として知られている相手は10人にのぼります。そのうち3人の女性との間に、4人の子どもをもうけましたが、うち2人はフランソワーズ・ジローが産み育てています。
ピカソと人生を共にした女性のうち、2人は自殺し、他に2人が精神を病みました。ジローさんは唯一、現代美術の巨匠を自分から拒絶し、立ち去った。フランスからも去りアメリカで画家活動をつづけました。21歳だった1943年、ナチス・ドイツ占領下のパリでピカソと出会い、10年ほど愛人関係にあった。ジローさんはこの時すでにエコール・ド・パリで最も尊敬を集めるアーティストの一人となっていた。
ピカソを袖にしたとあってパワハラもどきの仕打ちをうけましたが、ジローさんはピカソと一緒にいると「自分壊れる」と・・・。
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マスメディアはピカソの愛人を冠にしています。↓
ピカソ愛人のフランソワーズ・ジローさん死去、101歳…ピカソより40歳年下
6/7(水) 読売新聞オンライン https://news.yahoo.co.jp/articles/f1564117b95aa5a1cd2c8f65532df5e1fa316845
【ニューヨーク=金子靖志】スペインの画家パブロ・ピカソの愛人で、フランス人画家のフランソワーズ・ジローさんが6日、米ニューヨーク市内の病院で亡くなった。101歳だった。心臓と肺を患っていたという。複数の米メディアが報じた。
米紙ニューヨーク・タイムズなどによると、ジローさんは1943年にナチス・ドイツ占領下のパリで40歳年上のピカソと出会い、2児をもうけた。53年にピカソと別れ、本格的に画家活動を始めた。64年に2人の関係をつづった「ピカソとの日々」を出版し、話題となった。
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ピカソを振った元愛人、仏画家フランソワーズ・ジローさん死去 101歳
6/7(水) AFP=時事 https://news.yahoo.co.jp/articles/bb07dae5478d87a6516cd9aafecb16f95154abfa
【AFP=時事】(更新)スペインの巨匠パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)の愛人でミューズでもあった仏女性画家フランソワーズ・ジロー(Francoise Gilot)さんが6日、亡くなった。101歳。
仏パリのピカソ美術館(Picasso Museum)がAFPにジローさんの死亡を確認した。米紙ニューヨーク・タイムズ(New York Times)が先に、心臓と肺を患っていたジローさんが死亡したと報じていた。
ジローさんは1921年11月26日、仏パリ西郊ヌイイシュルセーヌ(Neuilly-sur-Seine)の裕福な家庭に生まれた。
21歳だった1943年、ナチス・ドイツ(Nazi)占領下のパリでピカソと出会い、10年ほど愛人関係にあった。ジローさんはこの時すでにエコール・ド・パリで最も尊敬を集めるアーティストの一人となっていた。
ピカソはジローさんより40歳年上で、当時は最初の妻でロシア人ダンサーのオルガ・コクローバ(Olga Khokhlova)さんと婚姻中であり、フランス人写真家・画家・詩人のドラ・マール(Dora Maar)さんとも愛人関係にあった。
ピカソとジローさんは結婚しなかったが、47年に息子クロードさんが、49年に娘パロマさんが生まれた。だが、ジローさんは53年に別れを決意し、再び絵を描き始めた。
■「自分が壊れる前に」
ピカソと人生を共にした女性のうち、2人は自殺し、他に2人が精神を病んだ中、ジローさんは唯一、現代美術の巨匠を自分から拒絶し、立ち去った女性だった。
ジャーナリスト、ジャネット・ホーリー(Janet Hawley)氏によるインタビュー本「Artists in Conversation(原題)」の中で、ジローさんは「パブロは人生最愛の人だが、自分を守るためには行動を起こすしかなかった。私は自分が壊れる前にそうした」と述べている。
ピカソは打ちのめされ、以来、ピカソの取り巻きはジローさんや作品を冷遇した。
競売大手サザビーズ(Sotheby’s)が2021年に引用した発言で、ジローさんは「私はフランスでかなり難しい状況に陥った。ピカソの元を去ったことが大罪とみなされ、もはや歓迎されなくなった」と語っている。
ジローさんはその後、米国籍を取得。1973年のピカソの葬儀には参列しなかった。晩年はニューヨークに滞在し、90代になっても制作を続けた。
ジローさんは生涯を通じて署名入りのキャンバス作品1600点以上を制作した。作品は米ニューヨークのメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)やニューヨーク近代美術館(MoMA)、パリのポンピドー・センター(Pompidou Centre)などに展示されている。【翻訳編集】 AFPBB News
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フランソワーズ・ジローさんの作品展は日本でも過去に開催されました。
財団法人 日動美術財団
協 力 Galerie Serge Panijiel ギャラリーセルジュ・パニジェル
Galerie Saint-Guillamme ギャラリーサン・ギョーム
後 援 茨城県/茨城県教育委員会/笠間市/笠間市教育委員会/
東日本旅客鉄道株式会社水戸支社
会 期 平成22年4月3日(土)~ 5月30日(日)
開館時間 午前9時30分より午後5時(入館受付は4時30分まで)
休館日 毎週月曜日(但し5月3日は開館、6日休館)
会 場 笠間日動美術館 企画展示館
入館料 大人1000円、大学・高校生700円、中学・小学生500円
65歳以上800円(20名以上の団体及び前売り券は各200円割引)
※春風萬里荘との共通券:大人1,400円、大学・高校生900円、中学・小学生600円、65歳以上1,100円(20名以上の団体及び前売り券は各200円割引)
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フランソワーズ・ ジロー Françoise Gilot プロフィール・経歴
1921 年、パリに生まれる。ソルボンヌの法科学士課程を修了し、国際弁護士になることを望んだ父親の反対を押し切って画家としての道を進む。1943 年、ナチス占領下のパリでピカソと出会い、1946 年より恋人として芸術のミューズとして生活をともにする。ピカソとの間に息子クロード、娘パロマが誕生し、それを機に生活の拠点を南仏に移す。その後、1953 年にピカソのもとを去り、2 児を連れてパリへ。前年にパリで開いた個展が好評を得たことで、自立への道を歩み始める。穏やかな抽象画はさらに注目され、活躍の場は英米にも広がっていく。1970 年には、小児まひのワクチンの開発者として知られる米国人医学者ジョナス・ソークと再婚して米国に移住。心安らかな暮らしがもたらされる。
1940~50 年代のエコール・ド・パリと、現代アメリカのアートシーンの架け橋となったジローの作品は、欧州および米国の多くの美術館に常設、または著名な美術コレクターの所蔵となっており、夫亡き今も、NY、パリを拠点に精力的に活動を行っている。
その他、作家でもあり詩人でもあるジローの主な著書は、世界でベストセラーとなった『Life With Picasso(邦題・ピカソとの生活)』(1964 年)、『The Fugitive Eye』(1976 年)、『Interface: The Painter and the Mask』(1983 年)、『Françoise Gilot: An Artist’s Journey』(1987 年)、『Matisse and Picasso: A Friendship in Art』(1990 年)など。1988 年フランス芸術文化勲章コマンドール章、1990 年フランスレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章。1996 年フランス大統領から国家功労勲章オフィシエ章を授与される。さらに、芸術家の仲間たちによりニューヨーク ナショナル・アカデミー・オブ・デザインのアカデミー会員にも選出される。
(財団法人 日動美術財団)
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作品例
まとめ
ピカソ死亡は1973年4月8日、50年前です。彼は自我のおもむくまま84歳、生きました。
ピカソを振ったフランソワーズ・ジローは101歳でした。ピカソの葬儀にも出なかっ彼女の意思、意地もすごいとおもいます。