逗子鎌倉の風”情”に育まれた無名時代の伊集院静
写真:「なぎさホテル」平成元年に解体
作家伊集院静さんのまっすぐな言葉が連なっています。
この作品、自伝的随想録といわれる「なぎさホテル」には、強くこころ打たれました。
背景が逗子、鎌倉—私事ですが30年暮らした場所という懐かしさもあります。あのあたりの海岸の砂浜のザラッとした感触はたまりません。大型犬が一頭、海の遠くをみつめています、話しかけても動じません。沖に出た主のサーファーを目で追っていたのです。
・・・その冬の午後、私は東京での暮らしをあきらめ、故郷の山口に帰る支度をし、東京駅に立っていた。東京での暮らしは、大学生活をふくめて十年余りの時間だった。疲れていた。家族とも離別した。西に向かう切符を買おうとして、ダイヤ表を見上げた時、関東の海を一度もゆっくり見ていないことに気付いた。――関東の海を少し見てから帰るか。横須賀線に乗って降り立ったのは逗子の駅だった。ちいさな駅だった。・・・
この書き出し、むつかしい自分自身の描写です。
・・・東京駅に立っていた・・・リアルには1978年、伊集院静28歳です。この作品の出版2011年7月(文庫化は2016年)です。
さらりと書かれています。ベンチに座っていたのでは雰囲気ががらりと変わります。東京駅、これが・・近鉄八尾駅に立っていた・・・でも大阪駅でも新潟でも町田でも宝塚でも今里でも、ちがう小説になってしまいます。東京駅でないと気分が乗らない、と感じますよね。その対比としての
・・・逗子の駅だった。ちいさな駅だった。・・・
逗子駅の実際は ちいさい というほど小さくはありません。「単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホーム地上駅」(ウィキペディア)で始発終着の列車駅です。駅前にはロータリもあります。連なる商店も二方向に伸びています。しかし東京駅との対比ではたしかに ちいさい 。
物量の大小ではない。感覚感情という比較ですね。
このちいさい駅から海岸までは歩いて十数分です。ぱっと開ける海を前に、皇室御用達の瀟洒な洋館ホテル「なぎさホテル」がかつてはあった。
砂浜に座りビールを飲んでいた若者(伊集院静)に、「昼間のビールは格別でしょう」と声をかけたのが「なぎさホテル」I支配人です。お金がないという若者に、「いいんですよ。部屋代なんていつでも。あるときに支払ってくれたら。出世払いでも結構です。あなた一人ぐらい何とでもなります」・・・・・・。これがきっかけで伊集院静はこのホテルに七年間居つづけ、作家になります。
落選作を「わたしはこういう小説が好きです」とホテル支配人
「なぎさホテル」は大勢の人に愛され平成元年、六十二年の歴史を閉じた。跡地には現在、すかいらーくグループのレストラン夢庵が建っています。外観上は「なぎさホテル」を思わせるものは何もありません。昭和、平成、令和、もう二昔前です。
新人賞応募で落選した小説をホテルの支配人は「わたしはこういう小説が好きです。一人でも愛読者がいるのだから、あわてず頑張りなさい。ゆっくりやっていけばいいのです」と言った。
・・・この言葉がなかったら、私は今作家としては生きてはいなかっただろう。・・・
伊集院静さんはそう語っています。
白血病で早逝した女優夏目雅子と伊集院静とのえにしもこの地、逗子、鎌倉です。湘南の海風が登場人物たちの心地よさを運んでくれます。この「なぎさホテル」は回想エッセイとも取れるし、私小説とも読めます。登場する人たちのキャラクタ造形はやはりプロ作家です。いや、実際の話だから、いや実際ほど転写はむつかしいのです。誰だって人間は多面立方体ですから詳細に描こうとすると訳が分からなくなりがちですが、鮮やかに善良という一面に焦点をあてていますね。
伊集院静「なぎさホテル」は夏目雅子を失った苦しみ哀しみも
このような人たちに接して生きてゆきたい・・・そう思わせる私小説が「なぎさホテル」だと思います。もしかすると、このような人物になりたい、なれるものなら・・・偉人伝ではない市井にいる人々の幸福状況は、このような人たちが作り出すのではないか。そう思わせる一冊でした。巷間、私小説は醜いだらしない主人公の悩みという内向的なネクラな印象が強いのですが、伊集院静の「なぎさホテル」は悩みを描いてもアカルイ印象を残します。私小説に新しいジャンルを開いてみせたのではないでしょうか。
しかし、現実を生きるというのは、幸福な時間ばかりではありません。
この「なぎさホテル」最終章最終ページには、妻夏目雅子を失った著者の苦しみ哀しみ、そして自暴自棄になってゆく姿が切々と書かれています。小説は書かず、飲酒とギャンブルの繰り返しです。この爽やかであたたかい「なぎさホテル」の終章が悲哀に満ちているのもリアルといえばリアルです。
まとめ 伊集院静という作家そのものも作品
伊集院静さんはご承知のように・・山口県防府市出身の在日韓国人2世です。出生当時の氏名は「趙 忠來」(チョ・チュンネ、ハングル表記では조충래)であったが、日本に帰化した際、西山 忠来(にしやま ただき)に変えた。・・(ウィキペディア)。
帰化ですからもう完全な日本人です。ぼくが伊集院静さんの言葉にハッとしたのは、
「日本が危機になれば日本のために銃を手に戦いますよ」
というものでした。これほどはっきりと言える作家は・・少ないと思います。
戦うということ、命がかかるということ、・・苦しみぬいた人が言える究極のおもいというものが「なぎさホテル」の文書の綾綾から立ち昇ってきます。
伊集院さんは2016年秋の褒章で紫綬褒章を受章しました。事前の打診には事務所スタッフに「丁寧にお断りするよう」指示していた。しかし妻の篠ひろ子さんが伊集院静さんの母に電話をしたところ、母は「この話(紫綬褒章)は絶対に受けなさい。お父様(伊集院の父)が生きていたら絶対に怒ります。」などと叱られ受けることに決めた。
伊集院静さんの母親(95歳)に65歳の伊集院静さんが叱られた・・「(辞退は)私は許しませんから」と最後に言われて電話は切れた。(注:『さよならの力』大人の流儀7の86P)
伊集院静という作家の存在そのものも、すてきな文学ですね。作品です。
そういえば、あなたもぼくも、ぼくたちの周りの人たちも、その一生はそれぞれの作品なんですね。ぼくの場合は何?作品? だろうか。あなたは、どうですか?
解体前のなぎさホテルレストラン
─伊集院静さん、笑顔。