『えくぼ』は伊集院静著『ぼくのボールが君に届けば』に収められた短編です。
ところで、、、
あなたの笑顔に「えくぼ」できますか。
ぼくですか?
うれしいと「えくぼ」だらけになります。
それって皺(しわ)だらけと言われればそうかなあぁ笑 金さん銀さんみたいに。
えくぼは笑顔にしかできません。タイトルは『笑顔』でもいいのかもしれませんが、いやしかし、 えくぼ のほうが可愛い感じが伝わりますね。
伊集院静『えくぼ』の隠れテーマは心療内科医のカウンセリング
伊集院静短編小説『えくぼ』は嫁&姑問題がテーマです。
隠れテーマは“カウンセリング”です。心療内科医のみごとなカウンセリングが凄いです。むつかしいことは言いません。患者が好きな「ヤンキースの松井」の話をえんえんと4月から10月まで八ヶ月くり返します。
———————————-
「善人と悪人がいるように、
持って生まれた性悪(しょうわる)な人だっていますよ」
———————————-
『えくぼ』(「ぼくのボールが君に届けば」所収)に出てくる伊東吉乃さん68歳は大学病院心療内科のドクターにこう言い切りました。
吉乃さんは過去に息子の嫁を実家へ追い戻しました。嫁も「そのつもりでした」と誕生したばかりの赤ちゃんを置いて去ります。嫁姑関係の究極の破局です。吉乃さんにとっては息子の嫁は憎んでも憎みきれないくらい憎いのです。一家をめちゃめちゃにした性悪・・・。
ドクターは、
「伊東さん、そんな生まれついて意地の悪い人なんかいませんよ。子供の時は皆素直でいい子じゃないですか」と説きますが、
「いいえ、それは先生が善い人だからそう思うんですよ」と頷きません。
・・・ここで読者は笑うと思います。
性悪なのは、あなた、吉乃さんじゃないの!?と。
彼女はマンションオーナーです。そのマンションの最上階全部を占める居室にはゴッホの絵画が何点も掛けてあり、経済的には悠々な一人暮らしです。しかし、犬を連れた女性店子(たなこ)に「盛りがついてるのは犬だけ?」などと平気で毒づきます。馴染みの喫茶店に入るやいなや談笑中の女性客に「またあたしの悪口言ってるのか」と絡みます。歩きながら大声でひとり言を言い中学生に逃げられたり。
吉乃さん自身も時折は自分が嫌になります。
亡き夫(病死)、亡き一人息子、亡き孫の名前を呼んで泣きます。息子と小学生だった孫は同時にトラックに跳ねられました。 “肌が合わない”といびり倒し実家に帰らせた嫁も病死しました。・・・吉乃さんは寂しいのでしょうか。
自業自得でしょうか。持って生まれた性分のせいでしょうか。
情緒不安定をみかねた喫茶店のマスターが大学病院の心療内科医師を紹介し、吉乃さんはドクターを気に入り通院していたのです。
松井秀喜の「笑顔」と亡き孫の「笑顔」がそっくりだった
彼女は、松井秀喜の「笑顔」と亡き孫の「笑顔」がそっくりなのを喫茶店のテレビで見つけました。”天使のような笑顔・・・“。くっきり覚えている孫の笑顔とテレビに写るヤンキース松井の笑顔が重なり、野球のことは何も知らなかった吉乃さんが、野球が好きになります。
シーズンオフになると人生までオフになったかのように落ち込みます。
「でも、だいぶ元気になられましたよ」
ドクターに言われて、「そんな気がします」と応えます。
さらにドクターは、尋ねます。
「伊東さん、近頃、何か気がかりなことがおありではないですか」
「気がかりって?」
「・・・今までの人生の中で気になっていることとかです」
今までの人生の中で・・・か。
灯りの消えた暗い天井を見つめカウンセリングを思い出します。瞼の裏に一人の女性の影が浮かんできます。・・・嫁だった ユキコ 。
・憎んでも憎みきれない。
・息子との結婚に反対し、結婚式に欠席した。
・吉乃との同居を拒否したユキコ。
・妊娠を知ると「子供を産んだら家を出ていけ」と告げた。
・「そのつもりです」とユキコは即答した。
・ユキコは産んだ子の顔を一度も見なかった。
・吉乃は母親替わりになって孫を育て可愛がった。
・息子と孫を亡くしたのもユキコのせいと恨んだ。
ずっと憎み続けていたユキコへの感情がカウンセリングを受けたこの八ヶ月余りで少しづつ変化しているのを吉乃さんは気づいていた。
―――――
人が有形で話し合える相手を得ると人は感情の棘を引っ込める・・・あ、これはぼくの勝手な解釈です。
―――――
墓前で泣きじゃくる姑
吉乃さんはドクターにユキコのことを正直に打ち明けます。
以後、小説は一気にクライマックスへ向かいます。
ユキコの実家を訪れた吉乃さんはお墓に案内してもらい、その墓前で、大声で泣きじゃくります。言葉は出なかったが、涙はとめどなく出ました。
三ヶ月ほど里帰りしたユキコは子授けの山、紫尾山に雨の日も風の日も一日も休まず、登り続けたと母親が話してくれます。生まれたのが・・天使のような笑顔の孫だった、野球のマツイの笑顔とそっくりの孫のアキラだった。ユキコは再婚したが二年で戻ってきます。
「あの子はそこで子を作ろうとしませんでした」
ラストシーンは帰路の飛行機の中です。機内誌にマツイの笑顔がページいっぱいに出ていました。
その松井秀喜の笑顔に「えくぼ」があるのに気づきます。
そういえば、、孫のアキラにも「えくぼ」があった。天使のえくぼ・・・嬉しくなります。
ふと気づきます。
自分にも、亡き一人息子にも、エクボはありません。
・・・えくぼは誰にもらったの?
吉乃さんはユキコの写真を取り出し、じっと、見つめます。ユキコサンの笑顔に孫とおなじくっきり可愛いえくぼがありました。
・・・こんな美しいものをユキコは孫にくれていた・・・
そう思った瞬間、見ていた雑誌の上に大粒の涙がこぼれ落ちます。ユキコさんも精一杯頑張って生きたのです。吉乃さんの涙は後悔の涙ではなく感謝の涙です。ありがとう、ユキコさん。後悔は過ぎると過去にしばられますが感謝は今を起点にこの先(未来)を心うれしく明るくします。
まとめ
短編小説『えくぼ』(伊集院静)は嫁・姑戦争の最後には亡き嫁の「えくぼ」をおもい泣き崩れる姑の話です。野球選手松井秀喜の「えくぼ」と可愛い孫の「えくぼ」と・・・もう一人のえくぼは・・・? 最後に謎が解けるミステリーのような面白さがあります。